他人を助けていい気持ちになるのは自己満足?
ところで、こんな見方もあるだろう。他人を助けていい気持ちになるのは、自己満足にすぎないのではないかと。これについて、ダライ・ラマにたずねたことがある。彼はそんなことはどちらでもいいと言った。他人を救おうという意図があってやったことならば、いい気分になってもまったくかまわない。これは、利己的になってもいい唯一の例なのだ。人によっては、完全な利他主義などありえないという意見もある。だが、そんなことはどうでもいい。仏教やヒンドゥー教では意図したかどうかがすべてだ。たとえ、それがホームレスに1ドル、2ドルを手渡すような小さなことでも、他者を気遣うという気持ちがあれば、何もしないよりずっといい。
わたしがダライ・ラマの協力を得て設立したスタンフォード大学のCCARE(共感と利他精神研究教育センター)では、共感の分野に関わるさまざまな研究活動をおこない、医療、教育、ビジネスなどの世界における共感の重要性を検証している。グーグルでもこれまでトップの大学出身者ばかりを雇用していたが、それがサステイナブルでないことを痛感しているといった話も聞いている。あらゆる業界で、共感がどんな恩恵をもたらすかを考える時代になった。
人は成功するといくつかの間違いを犯す。そのひとつが、この成功は自分の特別な知恵や知識があったからこそだと都合よく考えてしまうことだ。しかし実際のところは、偶然にすぎない。また成功した人間は、自分のことをあがめる人々に囲まれていたいと感じるようになる。自分が弱いからそうなるのだ。
わたしは毎日、自分が抜きん出た人間などではなく、まだまだ学ぶべきことがたくさんあると言い聞かせている。毎朝ベッドの端に座って、10分ほどの意識的なメンタルエクササイズを行い、次のようなことを唱えるのだ。
どんな状況からも学ぶことはできる。社会的地位の最も高い人でも最も低い人でも、誰からでも分け隔てなく学びたい。また、自分に挑戦してくる人間、自分の言うことをすぐに聞き入れない人間にそばにいてほしい。つつましく謙虚で、エゴへのこだわりを持たず、他者のために役立つ人間でありたい。
目覚めた最初に、今日はどうやって他者のために役立とうかと考えれば、それはその1日の気分や行動に影響を及ぼすものになる。