月に2~3度選手に宛てて書いた手紙
チームはリーグを脱退した大塚商会の1部の選手をとり込み、日本リーグ2部でいきなり優勝を遂げる。山谷は1年目の選手やスポンサーに感謝する。
「会社をつくるでも、何かを始めるでも、1回転目が大事だと思っています。何もない中でも口八丁手八丁でチームをつくる。一番有り難かったのは選手です。給料が払われるかどうかわからないチームにきてくれたのです」
世の中、金銭だけで動く人間ばかりでもない。チームの志を説けば、共感を覚えてくれる選手もいる。
「モチベーションマネジメントでいうと、人の働く意欲というのは、金銭的なもの、物欲的なものだけじゃない。僕らの強みはハード面にはまったくない。お金がなくても夢にかけてくれ、と言うしかなかったのです」
1年目の10人の選手年俸のトータルはざっと3000万~4000万円だという。安い。ある選手から、こう言われた。「この会社、大丈夫ですか」と。情報がない選手はどうしても不安となる。そこで山谷は月に2、3度、選手に手紙を書いた。
会社の細かな経営状況ほか、勝負哲学、体験など。情報の伝達、収集を大事にした、と山谷は言う。
「体でいうと情報は血液と一緒なのです。血液、コミュニケーションが滞ってしまうと、節々の末端が腐っていくわけです。それだけは、経営者はやっちゃいけない」
08年。日本リーグ2部を制した後、ヘッドコーチに秋田・能代工高の元監督の加藤三彦を招請し、日本代表の川村卓也らを補強する。さらに日本人初の米プロバスケットボール、NBA選手の田臥勇太を獲得する。
「最初は夢物語だった」と、山谷は打ち明ける。当時、田臥はNBA下部リーグのチームに所属していた。代理人に電話をかけたら、「断ります。もう二度と電話をしないで」と言われた。
施設は貧弱、他チームほどの高額な報酬も準備できない。でもアプローチを続ける。山谷は部下をアポなしで渡米させ、代理人の事務所前から電話を入れる。が、会ってくれなかった。営業の鉄則、資料だけをポストに残した。チームスタッフが再度渡米し、わずかな時間ではあったが代理人と会うことができた。
8月下旬、突然、代理人から電子メールがはいる。条件を提示する。2時間後に契約のファクスが届いた。田臥のサイン入り。「信じられなかった。英文字で“ユウタ・タブセ”とあった。これ“タブチ”じゃないの、間違っているんじゃないのって」。2日後、田臥を成田空港で出迎えた。
2年目。田臥効果もあって、観客数はどんどん伸びた。3年目の昨季は劇的な優勝を飾る。主催試合の平均観客数は2600人に達した。
宇都宮市を中心に小中学校でバスケットボール教室を開く。地域のバスケ・クリニックも実施する。お祭りなどの地域イベントに参加し、リンク栃木をPRする。これらの活動は3年半で600回を数えた。
「地域密着」。あえてスローガンで謳うことはない、と山谷は言う。
「地域密着は当たり前のことなのです。それを理念に掲げるのはほんと、恥ずかしい。理念より行動です。申し出は断らない。時間が空いていたら、どこかにいく。回数にこだわりました」