「結局、我々の取り組みはトヨタの本流には入れなかった。豊田は『トヨタドットコム』を作りたかったはずです。しかし、あのとき『トヨタ』という名前は付けられなかった」

このときから、「画像」と「動物園」をかけた「ガズー」という言葉は社内改革の旗印になった。その後、「ガズー」が「レース」と結びつくのは、ウェブサイトが徐々に認知されてきた数年後のことだった。

「ガズードットコム」には、トヨタ車や販売店に対するユーザーの声を集めるという目的があった。だが、そのためには集めた課題を「下流」の販売店だけでなく、「上流」の開発部門へも届ける必要がある。

豊田が成瀬弘という「師」と出会ったのはこの頃だ。同時期に豊田はGMとの合弁会社「NUMMI(ヌーミ)」の副社長に就任している。喜一郎、英二、章一郎とエンジニアの血を受け継いできた「豊田家」にあって、事務系のキャリアを歩んだ自分が「クルマづくり」に接近するためには、「運転」の技術を学ぶほかない、という思いもあったのだろう。

「社長として適格か僕はずっと不安だった」

「成瀬さんとの出会いは衝撃的だったはずです」と友山は振り返る。

「豊田はテストドライバーの操縦技術を数年かけて習った。その過程で、いいクルマを作るためにはクルマを開発する人たちが、命がけでクルマを試す場が必要だと確信した。すなわち、モータースポーツをクルマづくりの根幹に置くべきだ、と」

だが、彼らの取り組みに理解を示す声は、ほとんど聞こえなかった。すでに社内にはF1をはじめとしたモータースポーツ活動があり、技術部がそれを担っていたからだ。

「なぜ営業部門のウェブサイトをしていた部署が、技術部を差し置いてモータースポーツに手を出すのか」

そんな孤立無援の状況で、豊田と成瀬が作ったのが「ガズーレーシング」だった。2人はアルテッツァを群馬の中古車店で2台購入し、自分たちでレースカーに改造した。メカニックは成瀬を慕う社員、ドライバーも半数は社内のテストドライバー。そのうちの1人が豊田という体制で2007年の初挑戦が行われた。