経済危機以降、欧米企業の高額な役員報酬が批判を受けるなか、日本でも金融庁が上場企業の役員報酬の開示を強化する方針に乗り出す。欧米に比べて、役員報酬が低すぎる日本においては開示の強制は得策ではないと筆者は懸念する。
上杉鷹山にみる日本の平等性高い報酬配分
金融庁が上場企業の役員報酬の開示を強化する方針だという。今の段階では個別役員の報酬開示を求めるまではいかず、役員報酬の決め方やその内容(たとえば、業績連動部分の大きさ)などの開示を求めるだけにとどめ、来年度以降、個別開示を求めるかどうか検討する、という。
今回の経済危機との関連で、欧米、とくにアメリカではそもそもこうした危機を招いた危険な投資や経営を繰り返していた投資銀行などの経営者の強欲が問題になった。リーマンショックという危機への命名で歴史を後世に残すことになったリーマン・ブラザーズ(組織は消え去った)の元CEOは、年間40億円以上の報酬を受け取っていたという。
金融機関に限らず、アメリカの経営者の報酬はきわめて高額である。タワーズペリンという人材コンサルタント会社の調査によれば、売り上げ1兆円クラスの大企業におけるトップの平均報酬額は、日本が1億5000万円弱なのに対して、アメリカは12億円強、欧州は6億円弱だという。日本の経営者の値打ちはアメリカの10分の1程度なのだろうか。
そんなことはないだろう。これだけ表面上の数字に差があると、経営者の能力差の問題や経営者の移籍市場があるかどうかというような問題ではなく、そもそもなんらかの貢献を組織に対してする人間への報酬のあり方について、社会の常識の違い、それもかなり原理的な違いがあると思うべきであろう。
それは、多くの人が貢献して、そのチームとして一つの最終業績が上がることを考えると、各人がどの程度の報酬を受けるべきかについて、かなり平等性の高い配分が当然と考える原理が日本の組織には昔からあるからである。
江戸時代に米沢藩の藩政改革を清貧の身を保ちながら行った藩主・上杉鷹山に対する評価が昔から高いように、組織の長たる人間の生き方の原理として、日本の社会常識にかなりの平等性の考え方が埋め込まれてきたと考えるべきであろう。それは、組織というものが集団の心を一つにすることが大切だという事実、そして経営とは決して経営者一人が活躍することを指すのではなく、「経営とは他人を通してことをなす」ということが本質だという事実を考えると、合理性の高い原理と思われる。
そのうえ、能力の個人間格差について、とくにポテンシャルの差について、基本的にはそれはあまり大きくないと日本社会は古くから思ってきたふしがある。もちろん、違いはあるだろう。しかし、それがそれほど大きな差なのか。しかも、その差を極端な報酬の差というような外形的な違いで表現することが正当化されるほど、大きな差なのか。
私は違うと思う。私だけでなく、社会常識として暗黙のうちに多くの人がそう考えているのではないか。