しかし、金融庁などを含めて、日本の資本市場関係者の間に「経営の透明性をより大きくすることが企業のパフォーマンスを上げることに大きく貢献するはず」という透明性神話があることが、ことの本質ではないか。その透明性神話は、「透明性を求めるのは国際常識だから」という援軍をもった神話である。

たしかに、経営者が悪いことをしていて、それを隠匿しようとしているような状況では、透明性を求めることに意味はあるだろう。しかし、経営のプロセス全般について透明性を広範につねに求めることが、企業の長期的パフォーマンスを上げることに本当に貢献するかどうか、私は微妙な問題だと思っている。

たとえば、経営統合をひそかに考えている経営者が、将来への戦略を開示すべきといわれて、経営統合プランを事前に透明に語るべきだろうか。あるいは、ある役員が前任者のとった行動の結果として短期的に業績悪化した場合に、その業績の責任をとって報酬を減らされる、といういわば「けじめとしての処置」を社長がとったとする。それ自体は、あるべきことかもしれない。しかしその「報酬削減」の事実を透明に公表することが、本当にいいことか。詳しい説明もできないままに、削減の数字だけが独り歩きして、さまざまな風評被害が起きる危険もある。

もちろん、不透明を許すことによるマイナスも容易に想像できる。無能な役員が居座って、高額の報酬をもらっていることが放置される、などである。経営者のお手盛りもまた、マイナスであろう。

どのような役員報酬にすべきは、じつに状況に応じて千差万別の対応をしなければならない。そうした問題で詳しい決定プロセスの開示を強制的に求めることは、開示後のさまざまな影響を考えると、決して得策とはいえない。開示を強制すると、ますます役員報酬を上げにくくなる方向へ作用する危険も感じる。

経営は結果責任である。役員の報酬は、企業としての結果を生み出すための経営上の手配りという経営プロセスの一部にすぎない。その経営プロセスについて、いちいち箸の上げ下げを指導するようなプロセス責任の強制は、多くの場合間違っている。内部統制の強制が間違っているのと、同じ話である。

役員たちは、報酬に対してではなく、経営結果に対して責任をもつべきで、その結果責任をむしろ厳しく問うべきである。