松陰が教鞭をとった松下村塾に高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋らの俊英が集(つど)ったのも、それゆえだろう。彼は安政の大獄で捕らわれ、29歳にして江戸・小伝馬町の獄舎で斬首刑に処せられる。
だが、その門下生が明治政府、さらにいえば近代日本の土台をつくったことは間違いない。まさに彼は本物の教育者でもあった。
私は大学卒業後、ソニーに入社し、フランスに8年間駐在した。海外に出ると日本人と外国人を比較するためか、人間としての自分の価値観を持つことが大事になる。私の価値観もフランスに行ってから形成された。
そこでふと思った。命を失ってもよいから外国を見たいと熱望した松陰が、本当に外国に渡っていたらどのような人物になっていたのかと。松陰は「己のために学問する」と述べている。これは、最後は自分がすべてで、自分自身の信念と価値観で行動するしかないということだ。その覚悟を持つ松陰が西洋の学問を学んでいたら、日本人としての己の価値観をどう語るかを知りたいと思った。
というのは、私にも人生における大きな決断が迫っていたからだ。私は帰国後、ポッカコーポレーションに転じた。毎年のように夫婦でフランスを訪れ、私を口説いたポッカの創業者で義兄の谷田利景社長(当時)の要請を受け入れたのである。吉田松陰は「当為当然の道、それはすべて実行する」と述べている。私も自分の信念と価値観に基づいて考え抜き、「当為当然の道」と思ったところを決断した。
ポッカが経営危機を迎えた2005年、私は社長として投資ファンドと経営陣によるMBO(マネジメント・バイアウト)で株式上場を廃止する決断を下した。創業者に頼ってしまうぬるま湯体質から脱却する意識改革と、抜本的な経営改革を進めるためだ。株式の非公開化には退路を断ち切るという意味もあった。
私は「全社員株主会社」と呼んでいるが、MBOに際して全社員に株式を取得する権利を与えた。社員一人ひとりが自分の会社の株を持つことで、当事者意識、株主の目線で考え、各自の持てる力を十分に出し切って改革を提案してくれると考えたからである。
おかげさまで再上場を目指して計画通りに業績は回復している。私は今でも、あの状況下での決断は正しかったと思っている。「当為当然の道」を選び、実行したからだ。