改革の礎をつくる「行動力」と「教育力」

私は名古屋大学法学部時代に初めて吉田松陰という人間像に接した。生徒を人間扱いしない教師とぶつかった中学時代以来、教育に不信感を持った私は、大学に進んでからも不信感が拭えず、自分が本当に興味を持てることを勉強したいとの思いから本をむさぼり読む日々を過ごしていた。

<strong>ポッカコーポレーション会長 内藤由治</strong>●1946年、愛知県生まれ。名古屋大学法学部卒。70年ソニーに入社。<br>フランス現法勤務などを経て、86年に退職。同年、創業者である義兄の招聘に応じてポッカコーポレーションに入社する。取締役経営企画部長、東京支店長などを歴任ののち、98年代表取締役社長に就任。2005年にMBOを断行したのち、06年より現職。
ポッカコーポレーション会長 内藤由治●1946年、愛知県生まれ。名古屋大学法学部卒。70年ソニーに入社。
フランス現法勤務などを経て、86年に退職。同年、創業者である義兄の招聘に応じてポッカコーポレーションに入社する。取締役経営企画部長、東京支店長などを歴任ののち、98年代表取締役社長に就任。2005年にMBOを断行したのち、06年より現職。

そのとき歴史学者の奈良本辰也先生の著書『吉田松陰』(岩波新書)に出合った。奈良本先生は明治の元勲を描くことにかけては第一人者だ。特に郷里でもある長州藩の志士たちに関する多くの著作がある。

『吉田松陰』を読んで、松陰の突飛なまでの行動力にまず圧倒された。彼は日本古来の山鹿流兵学や長沼流兵学を学んだが、西洋の兵学を知るに及び、彼我の差にがく然とし、外国留学の意思を固める。そこで松陰はとてつもない行動に出る。安政元(1854)年に日米和親条約締結のため再来日したペリー提督の旗艦ポーハタン号を訪ね、密航を直訴したのだ。密航は拒否されたが、私はその血気盛んな情熱家の人柄に魅了された。

吉田松陰は思想家であると同時に教育者でもあった。現実社会を知らない現代の学者と異なり、彼は世の中の変化に極めて敏感であった。日本はこれでよいのか、今は学んだことを実践することこそが大事と考え、それが彼にとっての学問となった。

吉田松陰のすごさはそこにある。明治維新を担った人の多くは農民と変わらぬ下層武士の伜(せがれ)たちである。彼はその出自を問わず、日本の改革を考え続ける若者に学問を教えた。今の能力主義と同じで、年齢や学歴に関係なく、幕藩体制下の封建社会を脱し、いかに日本をよい方向に向かわせるかを自ら考える人を評価したのだ。教えを請う者はすべて受け入れている。彼の大きさを感じないわけにはいかない。