いつの間にか「失われた20年」に突入した
3月11日午後2時46分頃に東北地方太平洋沖でマグニチュード9.0を記録する、信じられないほどの巨大な地震が発生した。それは、東西南北何百キロメートルにわたってプレートがはね上がることによるものであった。また、そのために大きな津波が次々と東北・関東地方の沿岸に押し寄せて、被害をより一層甚大なものとした。この東日本大震災によって被災された方々には心よりお見舞い申し上げたい。
東日本大震災が発生したとき、筆者はたまたまソウルで会議に参加していた。その会議の真っ最中に、会議に参加されていた日本の方の携帯にその一報が入った。早速、ホテルの部屋に戻り、NHK BS、BBC、CNNと次々にチャンネルを変えて、テレビの画面に見入った。画面には津波の大きな被害が映し出され大きな衝撃を受けた。その衝撃の大きさから愕然としていたところへ、その週明けに始まった突然の東京電力による計画停電が追い打ちをかけた。計画停電およびその影響を受けた公共交通機関の大混乱・運休が、東北・北関東のみならず首都圏にも多大な影響を及ぼすこととなった。
筆者自身は、東日本大震災の翌日に、震災の影響を受けて、フライトが1時間ほど遅れて金浦空港を出発したものの、羽田空港に無事に戻ることができた。乗客の中には、出発が1時間遅れとなった理由の説明がないとキャビン・アテンダントに詰め寄る人もいた。空港に置かれたテレビで東日本大震災のニュースが流れていたので、出発遅れの理由は聞くまでもないことだろう。非常時においてもいつでも飛行機がスケジュール通りに飛ぶはずだという予想(期待)が彼らを不愉快にさせていたのだろう。むしろ被災者の方々のことを考えると、遅れてでも羽田空港に降り立つことができたことは、幸運だったと感じたのは筆者だけではなかっただろう。
しかし、東日本大震災の当日に帰宅難民となって、疲れ果てて帰宅した家族とソウルから帰国したばかりの筆者は、スーパーマーケット等の店頭からお米やミネラルウオーターやトイレットペーパーが消え失せていることも、ガソリンを入れるためにガソリンスタンドの周りに長い車の列ができていることも知る術はなかった。
直接に甚大な震災被害を受けていない東京において、店頭からお米などが売り切れとなったり、ガソリンが入手困難となったりしている状況は、流通が滞っているというよりもむしろ買い占めや買い溜めによるところが大きい。普段、豊富に店頭に並んでいると買い占めや買い溜めが起こらないにもかかわらず、だれかがそれらを普段より大量に買い込んで、店頭における在庫がだんだんと少なくなってくると、ますますそれらが店頭から消え失せる前に買わなければならないという消費者心理が働く。そして、ついには、店頭からそれらの商品が消え失せてしまう。これは、たとえ商品の在庫がある程度あったとしても、皆が買いにきて、商品が店頭からなくなってしまうのではないかという予想(懸念)から起こる行動である。