かいわれ大根を世に広めた創業者
村上農園は、1966年に村上清貴の叔父、村上秋人(あきと)が創業した。当初は秋人の母が始めた刺身のつまとして使われる紅タデ(紅色の小さな葉)の栽培を営んでいたが、当時高級食材だったかいわれ大根に着目、1978年から栽培を始めた。
秋人は特殊マットを使った水耕栽培を独自開発し、価格を下げて、一般家庭向きの野菜として出荷した。普及のために寿司屋で「かいわれ巻き」を考案したのも秋人だ。
かいわれ大根は消費者に支持され、急速に普及し、村上農園の売り上げも順調に拡大したが、1980年代に入ると次々と競合が参入し、熾烈な価格競争が始まった。
体力のない事業者は倒産し、その設備を秋人は買い取り、規模を拡大。また、収穫から箱詰めまで自動化を図り、コストダウンすると共に、品質向上のため、米オレゴン州に種子生産会社を設立、良質の種子を輸入した。
こうして、かいわれ大根の市場シェアトップを握ったが、1996年、突如、「O-157騒動」が起きた。この病原性大腸菌を原因とする集団食中毒が発生。日本中を騒然とさせた。食材の犯人捜しが始まり、疑われたのがかいわれ大根だった。野菜が大腸菌に汚染されるなど前例がなかったが、連日のマスコミ報道にかいわれの売り上げはあっという間に落ちていった。村上農園では社員の半数を半年間一時帰休させ、7つの農場のうち4つを操業停止して対応した。
その後、市場は落ち着き、回復していったが、翌97年にも再びO-157による食中毒が発生。消費者のかいわれ大根離れは前年度より厳しく、村上農園の売り上げは大幅に落ち、若手社員は辞めていった。同業者も次々に倒産した。
このとき、同社を救ったのが豆苗だった。1994年から試験栽培を続けていたが、かいわれの生産休止によって空いたスペースで豆苗を増産。栄養価の高い豆苗を売り込むべく、全社を挙げて販促に取り組んだ。陣頭指揮を執ったのが、1993年に入社した現社長の清貴だった。清貴はリクルートで働いていたが、叔父の秋人に請われて村上農園に入社し、取締役として村上農園の再建を担った。
清貴は入社後、生産現場で必死に栽培技術を学び、自ら試行錯誤を繰り返しながら、発芽率のアップや品質向上のための栽培方法を模索した。
「当時はほとんど休みもなく、就業時間後に独自に勉強しました。敢えて先輩たちを頼らず、自分で納得できるまで温度、湿度、照度などを変えて栽培試験を行いました。それによって従来はできるわけがないと思われていた、茎の長さのコントロールが可能となったのです」
清貴のこうした姿勢がカンと経験に頼っていた現場の意識を変えていった。いまでは科学的知見に基づいた栽培管理が行われ、各生産施設では毎日、生育状況、温度、湿度、日照量、散水量などが記録され、全社で共有されている。そのため、何か問題や不良が発生すると、原因をスピーディーに特定できる。
また、豆苗専用として国内最大規模の山梨県の生産センターでは、オランダから輸入した最新鋭のシステムを導入し、種まきから収穫まで自動化されている。気温や日照量をシステムが感知し、遮光および保温カーテンが自動制御され、最適な栽培環境が維持されるようになっている。清貴はこれを農業ならぬ「脳業(ブレーンビジネス)」と名付け、日本の農業に革新をもたらそうとしている。