それでも、人々が走るのをやめたのかといえば、そうではない。100メートルからマラソンまで、オリンピックの「走る」競技は人気だし、最近ではランニング・ブームといわれるように、自ら走る人も多い。

人は、走ることの実際的な意味がなくなった後でも、走り続けるのである。

そう。スポーツとして。

「スポーツ」という言葉は、もともと、「余暇」や、「人間が楽しむためにやること」という意味から来ていると言われている。

自動車に乗れば、あっという間に着くことがわかっていても、その距離を人間はわざわざ走っていく。苦しくても、それを乗り越えることに意味があると考えるのだ。

同様に、将来的には、人工知能のほうが圧倒的に強いとわかっていても、人間が、その有限の記憶力、集中力、思考力を駆使して、囲碁などのボードゲームを楽しむ、ということの意味が失われるわけではない。

そうすることで、脳の回路が鍛えられるし、認知症の予防にもなる。

人工知能の発達によって、人間の思考から神秘さが奪われたとしても、スポーツとしての意義は変わらない。そう考えれば、必ずしも悲観することはないと思う。

将来、自動翻訳が普通になっても、人々は英語を学ぶだろう。スポーツとして。

むしろ、人工知能の発達により、人間は、スポーツとしての思考、外国語習得の純粋な歓びに目覚めていくのかもしれないのである。

(写真=AFLO)
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