同時に、家庭教師を頼み、インドネシア語を猛勉強する。もちろん、「Masako」の販促で、店回りの先頭に立つためだ。支店が4カ所、「MESS」と呼ぶ民家を借りた倉庫兼事務所の拠点が全国に180カ所。総勢1750人の販売部隊とともに、各地の小売店だけでなく、板が間隔を置いて結んであるだけの縄の橋でしかいけない地にも、足を運ぶ。
回ると、アイデアが浮かぶし、提案や苦情にも出会う。「商品を陳列する棚がほしい」「棚に商品の広告を付けてほしい」といった声を、どんどん吸い上げた。包装の問題点も聞き、改善する。このとき以来、店との協業を重視、そして「課題は現場にあり、解決策も現場にある」との信条が仕事の原点となった。
テスト販売時には月1トンだった販売量は、2年後に100倍、いまでは数千倍。振り返れば、全国展開に踏み切った際、まだデータは不完全だった。でも「もういける」と思い、動き出す。生来、楽観的に考える性格で、答えが70点になれば始める。やってみると、何か反応があるので、それを活かして100点に磨き上げていく。最初から100点の案をと考えると、時間がかかり、環境が変わってしまう。やりたくない人間が、「できない理由」ばかりを並べてくることにもなる。大企業病というのは、そのへんにあると思っていたから、「70点主義」を部下たちとやってきた。
想像を超えていた壁が、現地スタッフとの労働観の違い。彼らには、日本からいっていた駐在員たちと同様に、厳しく指導した。駐在員は不便な環境のなか、どうしても現地スタッフを甘やかし、無難に過ごそうとなりがちだ。それでは、幹部が育たない。手抜き、先送り、妥協の3つには、雷を落とす。将来、彼らだけで運営できるようにするには、人材育成が基本。すべて、そう思って叱る。