悪の問題は人間の自由に帰結する

いま、私たちの周りには「悪」が蔓延している。凶悪な事件や国際テロが新聞やテレビに登場しない日はめずらしい。日本国内では今年、名古屋大学の女子学生による77歳女性の殺人事件があった。理由は「人を殺してみたかった」からという常識とは乖離した感覚だ。海外ではイスラミックステート(IS)に象徴される過激テロの拡散が激化している。いつも、不幸や苦難を舐めるのは一般市民である。殺人だけでなく、東芝不適切会計に見られるように名門企業の歴代のトップが粉飾決算に近い行為を続けてきたことも発覚した。

姜尚中さん。近著に『悪の力』(集英社新書)がある。

個人的なことでいえば、60歳半ばにして初めて、私は「悪人というものは、実際に存在するのだ」と思い知る経験をした。その過程で私は「許せない」という強烈な感情の虜になってしまい、精神的な痛手を受けたといっていい。このことが近著『悪の力』を書きたいと思った理由である。

世の中がこうなってしまったのは、いつごろからだろうか。戦後を振り返ってみると、1950年代後半から60年代の高度経済成長期に、国民が物不足からようやく解放されている。テレビ、洗濯機、冷蔵庫という“三種の神器”に象徴される、貧しさからの自由を求めて働いたからだ。やがて、車やマイホームも手に入れると、今度は「○○からの自由」ではなく、より主体的な「○○への自由」を求めはじめる。

ところが、これがそう簡単ではない。なぜなら、それは他人から与えられるものではないからである。よく「年収1000万円へ稼ぎ方」といった本や雑誌の特集を目にする。そこではコンサルタントやファイナンシャル・プランナーといった人たちが稼ぎ方を伝授している。しかし、厳密にいえば「○○への自由」とは違う。本当の自由というものは、金銭欲の充足ではなく、生きる意味とか目標を自分で模索し、発見することである。

悪の問題を考えるとき、この人間の自由ということが重要な意味を持つ。例えばいま、社会の規制が繰り返し緩和されたことで、自由に競争できるようになった。確かに、自分に投資して、スキルアップをすれば、億万長者へのサクセスストーリーも夢ではない。自由とは何かを選ぶことでもある。ただし、それには自己責任が伴う。それを嫌がり、選択を避けてしまっては自由を獲得できず、そうした人たちの集まる社会は「何でもOK」の浮ついたものになる。当然、そこには悪の温床が生まれる。