“見える研究”とスターが必要だった!?

著者の鬼塚英昭氏は、そこにすさまじいばかりの欲望の臭いを嗅ぎ出し、その虚飾を暴こうとした。鬼塚氏は「理研には闇の部分が多すぎると思ったのである。その闇の部分が拡大し、日本という国家の闇の部分の中に溶け込んでいると思ったのである」と書く。太平洋戦争中に戦時国家体制を支えた存在として、戦後間もなく、理研産業団は解体。それに伴って、理化学研究所も解散させられるが、その根は地下深く残った。

例えばそれが、大河内と田中角栄の蜜月となって現れる。2人の出会いは、大河内が新潟県柏崎に理研関連の工場建設を請け負ったことに端を発する。終戦間際、アメリカの空襲を避けるために、これらの施設を朝鮮に移設する工事を田中が任される。工事費総額だけでも約2000万円。現在のお金に換算すると400億円にものぼる。しかし、戦況悪化により工事は中断し、田中は残金をカバンに詰めて帰国。その金が金権政治といわれる政治の闇につながる。

1958年に理化学研究所は特殊法人として復活するが、こうした歴史を考えると、あの小保方晴子も“理研の闇”に咲いた一輪のあだ花だったのかもしれない。理学研究所はずっと国家と密着して生き続けてきた。田中角栄の時代から、国から予算をいかに獲得するかに腐心していたと言っていい。それには、世の中に“見える研究”とスターが必要だ。それがSTAP細胞であり、アイドル性さえ持つ小保方だった。マスコミは持て囃した。だが、不正発覚の後は手のひらを返したのである。そしていま、理化学研究所も深いダメージに喘いでいる。