屋台骨を担う国内の時計工場

海外で長年シチズンブランドの腕時計を売ってきた戸倉にとって、国内のシチズンはその技術力を市場から正当に評価されていないように映った。

「わが社の強みはなんといっても、時計の設計から製造まで自社単独でできる技術力にあります」と戸倉が語るように、精度の高い高品質なクォーツ時計を大量生産できる国内工場を持っているのがシチズンの大きな強みである。

同社は主に鹿児島と夕張で部品を生産し、長野県飯田市で組み立てを行っている。工場に一歩足を踏み入れると、超微細、高精度のモノづくりが要求される厳しい現場があった。たとえば、部品を生産する鹿児島工場では、人の目にはゴマ粒としか見えない部品がラインを流れ、その一つひとつに油を差していく。「かな」と呼ばれる軸の先端を削る精度はミクロン(1000分の1ミリ)単位だ。器用で緻密、チームワークの良さにたけた、日本人だからできるモノづくり工場だ。

飯田工場のムーブメント(駆動装置)組み立てライン。ケースに次々に極小部品が組み込まれていく。

ここでつくられるのは、時計を動かすための駆動装置である「ムーブメント」用の部品だが、その数は2500種類に及ぶ。持田正シチズン時計鹿児島社長は、「図面はすべて1000分の1ミリ単位ですし、金型も全部自前、それで出荷する際の品質は、10万個に1個不良品があるかないかです」と桁違いの精度の高さを説明する。

これらの部品は飯田工場に送られ、組み立てラインに回される。ラインを上流から下流に流れるにつれ、初めは平たい小さな箱にすぎなかったケースに次々に部品が組み込まれていき、ムーブメントとしての形が完成していく。

70年代から80年代にかけて、シチズンがクォーツ時計で世界を制覇できたのは、高い技術力を持つ国内工場があったからである。

しかし、90年代のシチズンはかつての栄光も色あせ、迷走していた。たとえば、自社製の腕時計に「シチズン」の名ではなく、流行のファッションブランド名を付けて売るライセンスビジネスに傾斜するようになっていた。

また90年代以降、情報機器や携帯電話向け部品など時計以外の幅広い事業に手を広げていった。が、00年前後になると、その多角化経営もしだいに行き詰まりを見せていた。

(文中敬称略)

シチズンホールディングス 代表取締役社長 戸倉敏夫
1949年、東京都生まれ。73年早稲田大学教育学部卒業、シチズン商事(現シチズンホールディングス)入社。2002年同社取締役、04年シチズン時計(現シチズンホールディングス)執行役員、07年同社常務取締役、09年同社専務取締役、10年シチズンホールディングス常務取締役を経て、12年より現職。
(榊 智朗=撮影 大橋昭一=図版作成(エコ・ドライブ))
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