80年代以降、シチズンは最終製品の腕時計を生産するだけでなく、腕時計を動かすエンジンにあたる「ムーブメント」を売るビジネスに注力していく。高精度のムーブメントを大量生産して安価に提供する技術は、シチズンの得意分野だった。世界中の時計メーカーがシチズン製のムーブメントを購入して、自社の時計ケースの中に組み込むようになっていったのだ。

しかし、90年代に入るとしだいに雲行きが怪しくなってきた。クォーツショックによって、一時は瀕死の状態に陥ったスイス勢が反転攻勢に出て、巻き返しを図ってきたからだ。

たしかに、機械式時計はクォーツ式時計より精度は劣るうえに価格も非常に高い。しかし、スイス勢はその弱点を逆手に取って、一つひとつ手間をかけてつくられた機械式時計を美術品・工芸品として消費者にアピールすることに成功する。スイス製の機械式時計は、オメガやタグ・ホイヤーといった高級ブランド名とともに数十万~100万円超の高級品として息を吹き返し、市場を席巻し始めたのだ。

一方で、中国をはじめとする新興国も90年代になると、品質は日本メーカーより劣るものの、クォーツのムーブメントをつくれるようになってきた。新興国はプラモデルのように組み立てられる安価なクォーツ時計を大量生産し、1000円、2000円といった低価格化で腕時計市場になぐり込みをかけてくるようになった。

対して、ブランド力も、価格も中途半端だったシチズンは、高価格帯の機械式時計で攻勢を強めるスイス勢と、低価格帯のクォーツ時計を市場に大量にばら撒く新興国に市場を侵食され、しだいに勢いを失っていった。

戸倉敏夫社長は、90年代後半のシチズンの状況をこう振り返る。

シチズンホールディングス 代表取締役社長 戸倉敏夫氏(東京・表参道のシチズン デザイン スタジオにて)

「パリから帰国したのが98年でしたが、スイスと新興国のはさみ撃ちにあい、国内は自分のブランドに自信を失っているように感じられました」

戸倉は73年にシチズン商事(現シチズンホールディングス)に入社し、2004年にシチズン時計(現シチズンホールディングス)に移るまで、31年間のうち16年半を海外で過ごした。香港、ドバイ、ハンブルク、ミラノ、パリと、アジア、中東、ヨーロッパの主要拠点に駐在し、海外から日本を見てきた歴史のほうが長かった。