目に見える違い以外の「多様性」
【窪田】 障がいがあるとかないとか、言語、宗教、人種にしても、スポーツはそういった枠を超えることができますよね。使い古された言葉ですけどオリンピックは平和の祭典と言われるとおり、スポーツが持っている力は偉大ですよね。
そもそも「障がい者」をどこで線引きするかって難しいことだと思います。個性の延長で、背の高い人もいれば低い人もいる。視力が良い人もいれば悪い人もいる。いろんな個人の属性の中でも一番端のほうのスペクトラムにいるとしても、本来、どこかで線をひけるものではない。その方が別の分野で高い能力を持っているとか、部分的な側面ではなく総体的に見ると豊かな個人だといえることがいくらでもあるわけですから。
【松崎】「障がいは個性」だというのはよく言われる言葉ではあるのですが、それを身体的に把握できている人は日本ではまだまだ少ないんです。多様性といったときに、文化とか性差とか言語といった、ある意味、見える違いではなく、1人1人を際立たせているすべての違いを「多様性の個性」と捉えているんです。それを考えたときに、視覚障がい者は確かに見ることができない部分があり、今の社会では、「できない」部分にフォーカスが当てられている。でも見えないがゆえに、彼らの感覚がより優れていることや、日頃のトレーニングがあるがゆえにできるようになったことはいっぱいあるんです。
例えば、われわれは「スポ育」というブラインドサッカーの体験学習を小学校向けに出前授業をしています。子供たちに「視覚障がい者がくるよ」と言うと「かわいそうな人」だって思うらしいんですよね。選手たちが入ってくると、「どうやって接したらいいんだろう」とか、何か助けなきゃっていう質問がくるんですけど、サッカーを通じて勝負をすると敵わないわけですよ。自分たちの好きなサッカーで敵わない。弱いと思っていたこの人たちっていったいなんなんだろうって思うようになり、すごい存在に変わっていきます。光の部分に目がいくんです。
ところが、選手が初めて訪れた学校のトイレに行くとき、1人でいけるかというと、手引きが必要なわけです。ここで、個性の補い合いが必要になることがわかるようになる。光の部分もあればそうではない部分もある。それを、サッカーを通じて体で知ることができるようになる。これが、僕たちが広げたい「多様性の個性」なんです。
【窪田】人間以外の多くの動物のように単なる弱肉強食を勝ち抜いていくだけではなく、人間の持つ英知というのはコラボレーションとか協働作業で共通の繁栄につなげるために生かすものですからね。そういった意味で、ブラインドサッカーの選手たちと健常者の方がお互いにできることとできないことを助け合って補っていくというダイバーシティを生かしたコラボレーションといえますけれども、それ以上のものがある。お互いが共通の目標を見出し、助け合っていける社会をつくるという大切な価値観がある。それが、実体験で広がっていくのは非常にいいですね。すべてにおいて完璧な人なんていませんから。