見かけの因果律に惑わされると可能性も狭まる
今回初めてアドラー心理学に触れましたが、示唆に富んだ内容で、私自身も救われました。
アドラーの一番大事なメッセージは、徹底した「目的論」です。それまでの心理学では、過去の経験によっていまの自分がつくられるという「原因論」が主流と感じていました。たとえばある人が結婚に不安を感じるのは、幼いころに両親が離婚して、それがトラウマになっているからだという考え方です。
しかし、アドラーは、そうした考え方を「見かけの因果律」といって否定しています。結婚しないのは、いまの生活を変えたくないなどの何らかの目的があるからで、その目的は過去に関係なく自分で選ぶことができるというのです。この考え方には、とても元気づけられました。
いま弊社は「ミドリムシで地球を救う」という夢をかかげて頑張っています。ただ、私自身は中流を絵に描いたような家の出身。郊外の多摩ニュータウンで育ちました。これまで、世界を変える仕事は別の世界の住人がやるべきことであり、平々凡々とした自分がやるのはおこがましいという気持ちが心のどこかにありました。
しかし、それは私が勝手につくりだした見かけの因果律に過ぎません。本当は育った街や家庭に関係なく、誰だって自由に夢を持って挑戦していい。それを2冊の本からあらためて教えてもらった気がします。
本来は何も関係がないのに、さも重大な関係があるように見える見かけの因果律は、ほかにもいろいろなところに潜んでいます。
たとえば東日本大震災で、原発事故が起こりました。この事故などで、私も悩みました。
私たちはバイオテクノロジーで不可能を可能にすることを目指す会社です。はたして自分たちは最新テクノロジーを社会に役立てることができるのだろうか。そもそもサイエンスは、人をより幸せにすることができるのだろうか。そのような疑問が少なからず出てきます。
でも、これも見かけの因果律。冷静に考えると、事故と、サイエンスが世の役に立つかどうかという問題とは、まったく別の話です。それなのに両者を安易に結びつけ、サイエンスの可能性を狭めてしまうのはもったいない。見かけの因果律にとらわれるのではなく、世の中をどうしたいのかという目的から出発することが大事です。