人間の本質にかかわる「信頼」について、世界の宗教はどのように扱ってきたのだろうか。宗教家への取材から、その意外な解釈が見えてきた。
キリスト教では「信じあえない」が前提
私たちは誰しも、他人から信頼されるのはすばらしいことだと思い、信頼される人間になりたいと願います。しかし聖書には、「みんなから信頼されるような人間を目指しなさい」とは、一言も書いてありません。
意外かもしれませんが、キリスト教では、「人間とはしばしば裏切るものであり、お互いに信じあえないのがあたりまえ」と考えます。仏教や神道はどちらかというと人間を性善説でとらえますが、キリスト教は性悪説です。仮にいままで一度も法律違反をしたことがない人も、生まれたばかりの赤ん坊も、すべての人間は例外なく罪を背負っているというのです。
ご存じのとおり、キリスト教では神がこの世界のすべてをつくったと考えます。もちろん人間も神がつくったものです。これを天地創造といい、その様子を描い書かれています。ところが三章の初めから雲行きが怪しくなってくる。
神がつくった最初の人間であるアダムとエヴァ(イブ)は、エデンの園という楽園で何の悩みもなく暮らしていたのですが、ある日、蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまいます。蛇はエヴァが一人のときを狙って声をかけ、「神はあなたがたがその実を食べることで、自分と同じくらい賢くなってしまうことを恐れているんですよ」などともっともらしいことを言う。そこでエヴァが一口食べてみるとすごくおいしいので、アダムにもすすめて2人で禁を破ってしまった。
2人は神の前で罪のなすり合いをします。アダムはエヴァのせいにし、エヴァは蛇のせいにする。そして2人は「木の実を食べたら死ぬ」と言われていたにもかかわらず、死なずにただ楽園を追放される。実はここに神の救いが隠されています。