私の無線技術で日本の電話を安く

京都を訪ねてまもなく、35歳で電電公社を辞めました。無線技術者としての自負はありましたし、そのまま勤めていればある程度の出世もできたはずです。辞めなくてはいけない理由はありませんでした。しかし電電公社が民営化されても、対抗軸がなければ、「NTT」が市場を独占するだけで、何も起きないのではないか。通信料金を下げるために、誰かが立ち上がらなければ――。稲盛さんの言葉が、頭に残っていました。

新会社は事業費の面から、マイクロウェーブ方式を選ぶしかないと考えていました。ところが無線技術者の数は限られている。日本の通信市場を変えるためには、私の技術が必要なはずでした。電電公社のなかで、私がやれる仕事は決まっています。一方、DDIでは真っ白なところにすべて自分で絵を描くことができる。日本の電話を安くすることと自分の仕事ができること。その両面が私の決断を後押ししました。

振り返ると、私は、稲盛さんの経営手法や哲学に共感して、近づいたわけではありません。事業を通じて知ることになり、自然とその手法を身につけていきました。いまではKDDIにも独自の「フィロソフィ」がありますが、そうした経営者は少ないはずです。

84年11月にDDIの母体となる第二電電企画に入社しました。怒濤のように働き、86年10月には東名阪でサービスを開始しました。電電公社では10年はかかる作業を、3年足らずでやり遂げました。なかなか経営哲学を学ぶ機会はなく、稲盛さんから「フィロソフィ」について直接指導を受けたのは、長距離電話事業が落ち着いてから。携帯電話事業を準備しているときですから、入社して4~5年後です。