時間は遡るが、山田は、自身の選挙区での戦いを有利にするために、民主党との選挙協力を画策したという。山田の地盤である東京19区は自民現職、民主元職が強い地域であり、山田は選挙区で苦戦することは必至であった。解散直後、東京20区は、民主党候補者が決まっていなかった。前出のAはこう語る。
「山田は、民主党と交渉し、自身の19区から20区への移動を提案した。19区の民主候補を山田が支援する代わりに、自分が立候補する20区で民主候補の擁立をしないよう求めたのだ。しかし、この取引が成立しなかったため、山田は19区での立候補を余儀なくされる。その後山田は、比例票掘り起こしのために20区で次世代候補者擁立に奔走するも、実現しなかった」
ここで次世代の党を代表して幹事長である山田に、A、B、Cの3名らから得た取材内容に関して事実関係の確認を行った。回答は平沼党首名義で、「そのような事実は承知しておりません」と返信がきた。
慎太郎は伸晃、宏高の選挙区情勢がよいと見るや、選挙中にもかかわらず引退宣言をしてしまう。これは、慎太郎が次世代の党から手を引いたとのメッセージを公明党に示すためと推測される。さらに平沼は選挙中に、自民党との連立を望む発言をした。これらの発言に失望した有権者は多かった。
選挙結果については、次世代の党は比例当選者ゼロであり、小選挙区当選者も全国でたった2名、都内ではゼロである。東京都内の候補者8名のうち6名が供託金没収であった。山田は辛うじて供託金没収を免れたものの、実態は泡沫候補であった。最早、政界に復帰できないであろう。
落選した前出のBは、「次世代の党とは、まったく保守ではない集団であり、自民党に入りたくてしょうがない議員の集まりであり、私利私欲の議員の集まりであり、存在価値のない政党だ」とため息をつく。日本共産党、公明党というリベラルな政党が躍進するなかで、日本の保守政党は自ら壊れてしまった。 (文中敬称略)