不機嫌な妻、無気力な子、頑迷な老親……家族をめぐる苦悩の克服には、“今日より悪い明日”を直視する徹底したリアリズムが必要だ。

「汝の敵を愛せ」は博愛主義ではない

様々な矛盾を抱えた書物であるにもかかわらず、『新約聖書』が約2000年、『旧約聖書』が3千数百年生き延びてきた強さの源泉は、そのリアリズムにあります。新約聖書の冒頭の「ヨハネによる福音書」第1章1節「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」がそれを端的に示しています。

この1節は、言葉が人間のものの考え方や感情、物事のすべてを決めていくということを述べたものです。キリスト教は言葉を重視する宗教。言葉なしには何事も相手に伝わらないということを、まず真っ先に述べているんです。

ですから、夫婦の間の「言わなくてもわかるはず」という“以心伝心”は、キリスト教ではあまり信用していません。仕事上の努力が上司にわかってもらえないのは、努力が足りないか、表現方法が悪いかのいずれかか、両方かということでしょう。

キリストの言葉としてよく知られている「汝の敵を愛せ」も、一般には博愛主義を説いたものと思われていますが、実はそうではありません。

「マタイによる福音書」5章43節以降をじっくりと読んでみてください。人が敵を憎むのは自然の心理。しかし、それは実は危険なことで、憎しみを持つと相手に対する認識が歪められる、つまり誤った見方や判断をしてしまう危険があります。

あなた方も聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。
しかし、私は言っておく。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなた方の天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

新約聖書「マタイによる福音書」5章43~45節

この言葉の真意は「敵と味方をはっきりとわけろ」ということなんです。そのうえで、敵を愛するほどの感覚で接すると、相手に対しバランスよく正しい見方ができると説いている。すごく冷めた見方ですよね。

あらゆる悩みごとへの対処もこれと似ています。人が思い悩むのは自然の心理。悪いことではありませんし、悩みながら新たな何かをつかみ取ることもあります。が、あまりにそこに囚われすぎると目が曇ります。

「マタイによる福音書」6章34節に「明日のことまで思い悩むな」、そして「その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。

明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。

新約聖書「マタイによる福音書」6章34節

悩みに心を煩わせてはいけない。いつまでも引きずっていても、何もよいことはない。思い患うのは今日1日で終わり。明日は気持ちを切り替えて、悩みの元を探ろう。そして解決策を見出そう。そう言っているのです。私の大変好きな言葉です。

あえて「狭い門」に入ることを厭わない。置かれた状況を客観的に観察し、対処して捨てるものは捨てる。そんな現実的な振る舞いこそ今の親世代に必要であり、そうすることで、家庭に限らず多くの悩みはよい方向に向かうはずです。

※言葉の出典は日本聖書協会『聖書』(新共同訳)

佐藤 優(さとう・まさる)
作家、元外務省主任分析官
1960年生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了、外務省入省。2002年背任等の容疑で逮捕される。05年執行猶予付き有罪判決。著書に『国家の罠』『自壊する帝国』『人に強くなる極意』ほか多数。
(高橋盛男=構成 小原孝博=撮影 PIXTA=写真)
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