「アイルランドはアメリカの仕事を電話線一本で受けてやっているし、インドもそうだ。東北三省には日本語ができる人が結構いるから、そういう人たちを使えば、電話線一本(ネット)で日本企業の間接業務を受けられる」とBPO(自社の業務プロセスの一部を外部の専門会社に委託すること)の仕組みと可能性を説明して、「日本の就業人口の6割は間接業務についている。うまくすれば、それを無限に取り込める。賃加工モデルから卒業できる」と煽ったら、薄煕来はもう大興奮である。

マレーシアの第4代首相、マハティール・ビン・モハマドと同じく、薄煕来もイメージが湧いてからの動きが速い。1カ月後に呼ばれたから行ってみたら、「先生、ここでやってくれ」と200万坪の土地を用意していた。これが後に大連ソフトウェアパークの開発へとつながり、9万人の雇用を生み出した。この辺のいきさつは後に「大連を中国のソフトセンターにしてくれた人」という中国中央電視台(CCTV)で1時間番組になっている。

大連での薄煕来の人気はすさまじかったが、市長で収まる器でない。数年後には遼寧省長になり、私も経済顧問として呼ばれた。遼寧省ではプロジェクトチームを与えられて改革プランを練ったが、如何せん、薄煕来の出世が早すぎた。プランを報告する前に中央政府の商務部長(大臣)になってしまったのだ。

コンサルティングには周期があって、一つのアイデアが実現するまでに5年、10年とかかる。従って、3年に1回出世するリーダーについていくのは容易ではない。自動車部品のクラスターをつくる、という遼寧省の改革プランも出来は悪くなかったが、結局、未完に終わった。

さらに薄煕来が重慶市の党書記になると、再び経済顧問に呼ばれて、以来、薄煕来氏が失脚した後も重慶市との付き合いは続いている。