中曽根さんの打てば響くような理解力
参謀が戦略やアイデアを授けても、それを速やかに実行に移せる大将というのは、実はそうはいない。私が仕えたマハティールやリー・クアンユー、台湾の李登輝(元総統)や薄煕来などはやはり切れ味鋭い決断力や実行力、リーダーとして傑出した資質を持っていた。
日本の政治家でいえば、中曽根康弘元首相が遜色ない資質を持っていたと思う。中曽根さんの場合、「日本をこうしたい」という自分なりのシナリオを持っていた。こだわっていたのは日米関係をイコールパートナーにすることで、「イコールパートナーはこうあるべきだ」というビジョンが中曽根さんの頭の中に明確にあった。だから私にアイデアを求めるというより、「これをあなたはどう思うか?」と自分の仮説を確かめるような質問が多かったので、こちらも非常に答えやすかった。
中曽根さんとの関係は参謀というよりブレーンのようなもので、最初のきっかけは86年の総選挙で自民党の戦い方を提案したことだった。
前回選挙では、ロッキード事件で逮捕された田中角栄元首相が一審で有罪判決を受けたことで政治倫理が大きな争点になり、自民党は単独過半数を割る敗北を喫した。自身3期目、しかも自民党単独政権を目指す中曽根さんとしては、次の総選挙での必勝を期していたが、事前の票読みでは形勢不利で惨敗の可能性すらあった。
そこで中曽根さんに授けたアイデアが「衆参ダブル選挙」だった。
その頃、選挙の投票率は下がり続けていて、組織票を持つ政党が有利な状況だった。投票にこない有権者の分析をすると、圧倒的に自民党支持が多い。しかし、「日本は変わらない」と思っているから投票所に足を運ばない。投票日が晴れれば遊びに出掛けてしまうし、雨が降ったら面倒臭がって家から外に出たがらない。そういう有権者を選挙に駆り出せば自民党は圧勝できる。そこで投票率を物理的に上げるための秘策がダブル選挙だった(本当は統一地方選も合わせた「トリプル選挙」を進言したが、「さすがにそれは難しい」という話になった)。
「これは儲けた」と喜んだ中曽根さんは巧妙にダブル選挙への布石を打ち、「死んだふり解散」を経て、86年7月6日に衆参ダブル選挙が実施されることになったのだ。