居眠りは、姿を透明にしてくれる魔法のマント

しかし、日本人の居眠りは、文化的に制度化されたものでもなければ、業務効率化のために積極的に取り入れられたシステムでもない。人々は勝手に眠っている。その原因を解き明かすためには、居眠りの持つ社会的な性質からのアプローチが必要だ。

日本社会において、「昼寝」や「仮眠」という言葉が指すものと「居眠り」と呼ばれるものは明確に区別されている。例えば会議でウトウトしている同僚を見て、居眠りをしていると思うことはあっても、仮眠を取っているというふうに解釈することは、まずないだろう。

ではそれらの差はどこにあるのか。居眠りというのは、その字の示すとおり、「その場に居ながらにして眠る」ことであり、生理的な特徴よりも、居眠りが持つ社会的な側面を強調した言葉なのである。言い換えれば、居眠りは「ながら」行動の一種ということになる。

電車で居眠りする人は、電車に居ながら、移動するという目的を果たしつつ眠る。会議で居眠りする人は、出席の義務を果たしながら眠る。居眠りにおいて眠りは副次的な要素であって、眠るために電車に乗る人はいないし、眠るために会議に出席する人もいないのだ。

では、そういった居眠りは実生活上ではどのように受容されているか。大勢の人が居眠りをする一方で、人前で眠ることをよしとしない言説も数多く存在する。再び電車の例に戻ると、居眠り自体をとやかく言う社会規範は今のところ存在しない。特に女性の居眠りが問題視される場合があるとすると、その最大の理由は襲われたり、ものを盗まれたりして危険だからということではない。それはマナーに関するものである。そして、そのマナーとは往々にして眠る姿を問題にするのである。

きちんと座り、脚を広げてはいけない。口もだらしなく開けてはいけない。その場にいる全員が不快になるので、いびきはもってのほかである。要するに眠っている外見が公的な場における適切な姿勢を保ち、乗客としてのマナーに反していなければ、日常の義務の遂行から解放され、眠っていること自体は受け入れてもらえる。とても奇妙なルールではあるが、日本的ともいえるかもしれない。私は、居眠りが姿を社会的に透明にしてくれる「魔法のマント」であると考える。マナーに則った居眠りをして「魔法のマント」をかぶると、人は透明になる。たとえ目の前に脚の不自由な老人が立っていても、席を譲らないことを社会的に罰せられることもないのだ。