キリシタンでもなぜ許されたか

例証はほかにもあります。

官兵衛の最初の主君、小寺政職は最初こそ信長方につくのですが、その後、毛利方に寝返ります。そして没落するのですが、官兵衛は政職の息子の氏職を庇護し続け、氏職の子孫はその後も代々黒田家に仕えています。

秀吉の時代の後のことですが、官兵衛は関ヶ原合戦のときの吉川広家との盟約を着実に履行し、最後まで毛利家の存続のために力を尽くしました。官兵衛は人を見捨てなかったのです。この誠実さこそが、官兵衛の最大の能力だったと言ってもいいかもしれません。

先ほど秀吉が、官兵衛をもっと高い身分に就けようとしていたという話をしましたが、宣教師ルイス・フロイスの年報に、こういう記載があります。秀吉が官兵衛に「おまえがキリシタンであり、伴天連らに愛情を抱いていたために、私はおまえに与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことがまだわからないのか」と言ったというのです。

官兵衛は、高山右近と同じように、洗礼を受けたキリシタンでした。ドン・シメオンという洗礼名もあります。キリシタン嫌いの秀吉は、それが気に入らなかったのですね。官兵衛が九州遠征の先頭に立っていたために、九州の大名たちの多くがキリシタンに改宗したという事情もありました。けれど、秀吉に面と向かってそこまで言われても、官兵衛は終生キリシタンを貫いたのです。自身の葬儀もキリスト教式で行わせました。官兵衛には、そういうところがあるのです。

秀吉としては、面白くなかったと思いますよ。それでも秀吉は最後まで、官兵衛を切り捨てることはなかった。高山右近はキリシタンということで、秀吉から処罰されていますが、官兵衛は皮肉を言われるくらいで許されている。

その違いは何かといえば、やはりこれは官兵衛の人間性だったのではないでしょうか。もちろん秀吉にとって、官兵衛が役に立つ存在だったということもありますが、それだけでなく、秀吉と官兵衛は、お互いに、魅力を感じていたのだろうと思います。秀吉が人間的な魅力にあふれていたように、官兵衛も魅力的な人物だった。秀吉は官兵衛のことが好きだったんじゃないかと思うのです。単に有能なだけではなく、人間として面白いやつだと。