家臣が書いた起請文

小田原城攻略の交渉役はなぜ官兵衛だったか。天正18(1590)年の小田原攻め。城に籠もる北条氏直も、「官兵衛なら信頼できると考えたのではないか」と著者は推理する。官兵衛は秀吉だけではなく、敵方からも厚い信頼を得ていたのであろう。(PIXTA=写真)

官兵衛が小田原城に交渉役として出向くシーンは、大河ドラマ「軍師官兵衛」の冒頭でも使われました。史料にはありませんが、このとき交渉相手に官兵衛を指名したのは、秀吉ではなく北条方だったのではないかと私は想像しています。つまり、北条家100年の歴史を終わらせるにあたり、官兵衛なら信頼できると考えたのではないかと思うのです。このとき北条氏直から官兵衛へ、『吾妻鏡』など北条家の家宝が贈られています。

荒木村重が信長を裏切ったとき、その居城である有岡城に官兵衛が説得に行ったという有名な話があります。説得は失敗し、官兵衛は城に幽閉されます。彼が幽閉されたことは、一次史料によって確認できます。このとき官兵衛の家臣たちが書いた起請文が残っているのです。

彼らは何があろうとも、自分たちは「本丸」に対し忠節を尽くすという誓約をしたのです。この本丸の意味するものが、官兵衛の父・職隆なのか、妻なのかは、議論の分かれるところです。いずれにせよ、有岡城から官兵衛が帰ってこなければ、この時代のことですから官兵衛が裏切ったと思われる可能性があるわけです。

実際にこのとき信長が官兵衛の裏切りを疑って、竹中半兵衛に人質だった官兵衛の息子を殺せと命じたという話があります。半兵衛は信長には殺したと偽って、官兵衛の息子を匿ったとされています。

ただ、私はこの話は疑わしいと思っています。というのは、1936年に桑田忠親氏によって紹介され昨今再び注目された重要な事例として、「本能寺の変」の後に官兵衛が村重の茶会に出ていたという記録が残っているのです。このとき村重が官兵衛をもし虐待していたら、その後茶会で同席するなどということがあったとは思えません。

いずれにしても、この起請文は、窮地に立った官兵衛を何があっても自分たち家臣は信じているし、支えていくという声明であり、それだけ官兵衛が家臣から慕われていたという直接的な証拠だと私は思います。家臣のみならず、官兵衛は民衆からも信頼される統治者であったと言われています。