勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。
監督業とは我慢することと見つけたり
9つのポジションのうち3つを占める外野手だが、久しく日本一監督は誕生しなかった。足が速く、肩が強いという身体能力と、監督に求められる頭脳とは相容れないのかと思ってきたが、21世紀に入って一変した。
若松勉(ヤクルト)を嚆矢とし、トレイ・ヒルマン(日ハム)、西村徳文(ロッテ)、秋山幸二(ソフトバンク)と、外野手出身監督の日本一が相次いだ。
様変わりした理由は何なのだろうか。
若松が外野手監督として日本一になったのは、2001年。梨田近鉄との日本シリーズを振り返ると、その謎が解ける。
第1戦は、石井一久が、チーム打率2割8分0厘、チーム本塁打211という、史上最強の“いてまえ打線”を8回1安打、12三振と完璧に抑え、7対0で圧勝した。
石井がしみじみ語っている。
「大事な日本シリーズの第1戦を、若松監督から任され、うれしかった」
ペナントレースの成績は、石井(12勝6敗。防御率3.39)より藤井秀悟(14勝8敗。同3.17)のほうが上回っていただけに、感激したのである。若松は石井が意気に感ずタイプの男と見て、大切な第1戦の先発を託したのだ。
チームリーダーの古田敦也は、若松を次のように評した。
「野村(克也)監督は、この人についていけば大丈夫と思わせる監督。若松監督は、この人を胴上げしたいと思わせる監督なんです」
第1戦、投のヒーローが石井なら、打の殊勲者は6回に値千金の3ランを放ったアレックス・ラミレス。若松がシーズンで132個も三振したラミレスを我慢強く使いつづけたのは、フロントが3年もかけて獲得した選手だったからにほかならない。
若松は、こう表現した。
「監督業とは我慢することと見つけたり」
1995年から2年間、二軍監督を務め、若い選手に接し、ストレスで胃を悪くしたが、その代わり、我慢を覚えたのである。
特筆すべきは、先のヒルマン、西村、秋山も、マイナーや二軍指導者を経験していたことである。21世紀に入り、外野手出身監督に日本一が相次いだ秘密はここにある。