元来、昨日と今日、今日と明日が同じというのが、嫌いだ。もう変えるべきものを放置しておくことは、罪のようにさえ思う。「破壊優先」とまでは言わないが、何かを創造するためには、先に何かを破壊をしなければいけない。合併は、そうした破壊と創造を一気に進める、めったに訪れない大チャンスだ。

そう確信し、社内の説得、相手の2社との再協議、合併比率の見直しなど、土日も休まずに取り組んだ。長い会社員人生で、最もきつい時期だった。でも、何とか、02年の7月1日と12月1日の2段階で合併する日程が決まる。

その過程で、投資銀行の人間に、合併相手に何かを譲るよう、助言された。交渉では、攻めなければいけない。ただ、「100対0」まで求めるような強硬姿勢ではダメだ。そこまでやると、ゼロになった側に敗北感や恨みが残るなかで、合併がスタートする。それでは、新会社のマイナスとなる。そう、指摘された。

なるほど、と頷く。最大の懸案だった合併比率の見直しでまとめた案は、無論、相互の株価などを考慮したが、社内の主張からすれば「100対0」には遠い。でも、代りに新役員の選定で、多くを主張した。大局観を失ってチャンスを逸したら、幸運の女神に見放されてしまう。

損保業界の再編の幕開けは、99年10月17日、会社の運動会の日だった。若い部下たちに窮屈な思いをさせまいと、参加を遠慮して自宅の庭で草むしりをしていたら、社長室の先輩が携帯電話にかけてきた。

「おい、大変だ。ニュースで、日本火災と興亜火災と三井海上火災が合併する、と流しているぞ」と言う。

当時、銀行の再編が、劇的に続いていた。でも、損保各社は相対的に財務内容がよく、「風が吹くのは、まだ先だろう」と考えていた。だから、すぐには信じられなかったが、また電話がかかってきて、「おい、社長が緊急招集をかけるからな」と告げられた。結局、三井海上は別の相手との合併へ転進したが、それが日本火災や興亜火災と安田火災との距離を、縮めてくれることになる。背中を強く押された日だった。