駅員5人がダウン「根性論は捨てよう」
体調を崩したのは乗客だけではなかった。駅員たちは寝る間もなく働き続けた。1日2~3時間の仮眠が取れればよかった。床に敷いた段ボールとアノラックが布団代わりだった。そんな環境で5人が体調不良を訴えた。松永は彼らをすぐに仮眠室で休ませた。
「ここが我々の踏ん張りどころですが……」と松永は続ける。「根性論は捨てようと話していました。体調不良を感じたらすぐに手をあげてくれと。作業中に倒れて大きな事故を引き起こしたら元も子もない。手をあげる勇気を持ってほしいと機会があるたびに伝えました」。
17日になると高尾駅~四方津駅間の運行が再開。大月駅~四方津駅までは4駅、約12キロ離れている。雪道に足を取られながら四方津駅を目指す乗客もいた。四方津駅に待機していた4人の社員も3時間半の道のりを歩いた。大月駅に到着したのは18時過ぎ。孤立無援となって4日。はじめての応援だった。
同日22時24分、143人を乗せた列車が大月駅から高尾に向けて出発。さらに翌18日10時33分、25人が乗る甲府行きが大月駅をあとにした。
列車を見送るためにホームに立つ入社2年目の寺田開智に、車内の乗客たちは別れを惜しむかのように手を振っていた。
「5日間の疲れを忘れた瞬間でした」と寺田はいう。「眠れずに早く目が覚めてしまったお客さまと話をしたり、除雪の状況を説明したり……。当初は『いつ動くんだ!』とお叱りを受けましたが、最後は『ありがとう』といっていただけた。自分も中央線を守る鉄道マンの一員なんだという意識を持ちました」。
寺田の隣で、駅長の松永もまた遠ざかる列車を見詰めていた。「最高の仕事だな」。寺田には松永が呟いた一言が印象に残っている。松永は語る。
「鉄道はダイヤ通り正確に安全に運行するのが大前提。だから今回は鉄道マンとして恥ずかしかった。1日でも1時間でも早く鉄道を普段の姿に戻したかった。鉄道マンの意思を示さなければ、と」
松永がはじめて帰宅したのは19日の昼。だが一休みしただけで23時には駅に戻った。夜、冷え込むとポイント不転換が再び発生しないとも限らないからだ。妻は、職場に戻る夫を「駅には駅長さんがいないとね」と見送ったという。
乗客を、駅を守る――。鉄道マンとしての矜持が、大月駅の120時間を、そして日々の仕事を支えていた。(文中敬称略)