年を重ねて増すヒデ君との日々の影響

ヒデ君のことを頻繁に思い出すようになったのは、長男が小学生になってからです。

長男はよくも悪くも私によく似ていて、あまり文化的なセンスがありません。ほとんど本も読まずゲームばかり、たまにスポーツ漫画を読む程度。テレビやネットでおぼえた下品な流行り言葉を友達と一緒に連呼している姿は、そのまま自分の子ども時代を見ているようです。

いつか息子たちにも、私にとってのヒデ君のような友達に出会ってほしい。自分とは違う世界観を持つ、知的で、ちょっとミステリアスな友達。

ヒデ君の家で出合った音楽は、私の世界を広げてくれました。受験勉強中の息抜きにはよく図書館で読書をしましたが、選んだのはヒデ君の家の書棚に並んでいた近代文学や外国のミステリでした。

今ふたたびそれらを読み直すと、さまざまな思いがこみ上げてきます。年齢を重ねるほどに、ヒデ君と過ごした日々が自分に及ぼした影響の大きさを感じるのです。

著書で知ったあの夜の50代男性像

京都にヒデ君と一緒にやってきたあの男性の情報を知ったのは、最近のことでした。たまたま古書店でその人の著書を見つけたのです。

調べてみると、すでに70代で亡くなっていました。彼は晩年自らのセクシュアリティを公表しており、若い恋人と暮らす日々を描いた耽美的なエッセイは、登場人物の一人がヒデ君を想像させました。

あの男性はヒデ君を愛していたのだろうと思いますが、ヒデ君はどうだったのでしょう。そういえば一度だけ会ったあの日、あの男性は、自分のことを「俺」と言っていました。エッセイも一人称が「俺」だったので、私は、きっとヒデ君は本当の心を彼に見せることはなかったんじゃないかな、と思っています。

ヒデ君に何があったのか、私にはわかりません。ヒデ君のような人は当時、さぞかし生きづらかったことでしょう。ヒデ君は時代を先取りした審美眼を持ち、真実を追い求める、純粋な青年でした。一方自分は、とにかく単純で鈍感で、ヒデ君のことを何ひとつわかっていませんでした。

でも、これは想像ですが、その何もわかっていなかった自分との関係は、ヒデ君にとって、気楽だったのではないでしょうか。

古い本を手に取る若者
写真=iStock.com/Valentina Stankovic
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