一般大学院とは区別される「専門大学院」
それが変わっていく萌芽は、1986年の臨時教育審議会第二次答申に、修士課程を「高度専門職の養成と研修の場として整備・拡充を図る」と書き込まれたことにあります。
1991年の大学審議会答申は大学院の量的規模拡大を打ち出し、その中で「高度な専門的知識、能力を持つ職業人の養成と再教育」を掲げました。
その後の累次の検討を踏まえて、1999年に大学院設置基準が改正され、「大学院には、高度の専門性を要する職業等に必要な高度の能力を専ら養うことを目的として、特に必要と認められる専攻分野について教育を行う修士課程を置くことができ」、この「修士課程を置く大学院は、専門大学院と称することができる」こととされました。
これにより、一般大学院とは区別される専門大学院が設けられることになったのですが、これを受けて開設された専門大学院は2003年度までに経営管理など10専攻程度にとどまりました。
法学部は「一般サラリーマン養成機関」
この状況に大きなインパクトを与えたのは、司法制度改革の流れから派生してきた法科大学院(ロースクール)構想でした。
しかし、そもそも法曹養成というのは、中世ヨーロッパ以来の大学教育の中軸の1つであり、医師養成と並んで高等職業教育の代表格であったはずです。
実際、東京大学法学部の前身は専門学校たる開成学校法学科と司法省法学校でしたし、現在の有名私立大学の大部分は明治時代に法律専門学校として設立されたものでありました。
ところが、これらが大学に昇格し、戦後さらに多くの大学に法学部や法学科が続々と設けられるようになると、その卒業生のうち法律実務家となるのはごく一部に過ぎず、圧倒的大部分は、経済学部や商学部の卒業生と全く同様に、一般ホワイトカラーサラリーマンとなっていきました。
法学部で学んだ知識をフルに活用するような仕事に就く法学部卒業生など殆ど存在しないのが当たり前と思われるようになっていったのです。この感覚が最も高まったのは、「企業主義の時代」でした。
150名の学生に「不可」を付けて大量留年
当時の感覚を示すものとして、1991年に明治大学法学部で必修科目の民法の教授が150名近くの学生に「不可」の成績をつけたため、就職が内定していた大量の学生が留年せざるを得なくなったという事件が発生し、大きな社会問題となったことがあります。
なぜ社会問題になったかといえば、日本の雇用社会においては、卒業証書とは大学がその学生はその大学学部に入学できるだけの地頭の良さと努力する能力を有することを企業に証明するはずのものなのに、たかが民法の成績などという枝葉末節のことでせっかくの内定を無に帰せしめるのは不合理の極みだと、少なくとも社会の多くの人々が考えたからでしょう。
法学部で根幹に位置する民法の不合格は、法学部卒業生を採用する企業にとっては、何ら顧慮するに値するものではないという日本社会の真実が露呈した瞬間でした。

