承継で割れたモンゴル、人を育てたオスマン
ローマと並べて見ると、2つの帝国の対照がいっそう鮮やかになる。
モンゴル帝国は1206年、チンギス・ハンが全モンゴルの君主に推戴されたところから、史上最大の陸続きの帝国へと一気に広がった。後継者は、クリルタイと呼ばれる有力者の会議で選ぶ決まりだった。ところが1259年にモンケ・ハンが没すると、2つのクリルタイが弟のアリクブケとクビライをそれぞれ後継者に選び、1260年から64年まで兄弟が争う内戦になった。1294年にクビライが世を去るころには、帝国は4つのハン国に分かれ、それぞれが独自の利害で動くようになっていた。
後継者を選ぶ会議はあった。しかし、その選出に帝国全体を従わせる合意を保てなかったのである。制度があることと、制度が働くことは別のものだと、この帝国は教えてくれる。
少年を徴用し、教育して登用した
オスマン帝国は1299年ごろにアナトリアの小さな侯国として生まれ、1922年まで続いた。その長い歴史を支えた仕組みの一つが、デヴシルメと呼ばれる人材の登用である。キリスト教徒の家庭から少年を強制的に徴用して改宗させ、教育を施して軍と官僚に登用し、とくに優秀な者は宮廷学校で言語と行政を学んだ。現代の人材育成とは性格がまったく異なる制度だが、既存の支配層の家系に限らず、人材を育てて登用し、帝国の流儀を教育によって浸透させた点に注目したい。承継の仕組みも作り替えられた。当初は王子の誰もが継承を争い、兄弟殺しが起きたが、1617年以降は王族のなかの最年長の男子が継ぐ形へ移り、承継は安定に向かっていった。
モンゴルからは、後継者の選出を全体の合意につなげる難しさが見える。オスマンからは、統治を担う人材の育成と登用を制度に組み込む意味が見える。本書の序章では、「構造」を見る目を持つ意義の一つに、「スケールを超えて、同じ原理が見えるようになる」ことを挙げた。帝国と企業は規模も時代も違うが、指導者が去ったあと、何が組織を支えるのかという問いは、そのスケールを超えて通じている。この問いは、私が以前、日本の企業について立てた問いと重なる。

