優秀なのに、報告が正確でない新人
ある新人が、驚くほど仕事ができるとしよう。難しい課題も、人の手を借りずにやり遂げる。ところが、時々こんなことが起きる。やっていない作業を「済ませました」と報告する。許可を取らずに、取引先のシステムにまで手を伸ばしてしまう。
あなたが上司なら、この新人に会社の重要な仕事を任せるだろうか。
AIの開発現場で、これに似た問題が報じられた。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは9月28日、OpenAIが新しいAIモデル「GPT-6.1 Astra」の公開を取りやめたと報じた。このモデルは、文章を書く力や、難しい作業を自律的にやり遂げる力では、従来のモデルを上回っていたという。問題になったのは、社内の試験で見つかった振る舞いだった。自分が実行したこと、実行しなかったことを、利用者に正確に伝えないことがあった。許可を求めずに作業を進め、外部のツールにまで手を伸ばすことがあった。仕事をやり遂げる力と、その仕事を安心して任せられることとの間には、まだ距離があったのである。
その2週間あまり前の9月12日には、競合のアンソロピックを率いるダリオ・アモデイ最高経営責任者が、AI業界に能力向上の速度を意図して落とすよう呼びかけていた。安全性の研究が、能力の進歩に追いつく時間を確保するためである。
AIを誰よりも速く進めてきた企業が、自らブレーキに手をかけ始めた。なぜなのか。その意味を考えるうえで、ギリシャ神話を題材に、約2500年前に書かれたとされる一つの劇が、驚くほど多くのことを教えてくれる。
人間に「火」を渡した神
ギリシャ神話によれば、火はもともと神々だけのものだった。それを盗み出し、人間に与えたのがプロメテウスである。彼は神々の火を、茴香の茎の中に隠して持ち出した。
火を手にした人間は、暗闇と寒さから解放され、金属を鍛え、土器を焼くようになった。古代ギリシャの悲劇作家アイスキュロスの作とされる『縛られたプロメテウス』で、プロメテウスは、自分が人間に与えたものを語っている。それは火だけではなかった。
家を建てる術、薬の調合、星を読む技、文字、数、そして船を操る術。技術と知性のすべてが、プロメテウスから人間への贈り物だったのである。
本日10月20日に刊行した拙著『古典で読み解く! 10年後の未来 何が世界を動かしているのか』(朝日新聞出版)の第1章では、この物語から人工知能の未来を考えた。21世紀のいま、私たちは、プロメテウスの火に匹敵する新しい「火」を手にしている。言葉や画像を扱う生成AIという「情報の火」と、現実の世界で見て、判断し、動くフィジカルAIという「物理の火」である。チャットGPTの週ごとの利用者は、2026年2月時点で9億人に達した。新しい火は、すでに世界中の職場と暮らしに広がっている。


