横浜スタジアムに足を踏み入れるたび、ライターの村瀬秀信さんはいまもこんな感覚を覚えるという。
帰ってきたな――と。30年前、茅ケ崎市出身の村瀬さんは横浜大洋ホエールズの野球に心を奪われた。そして親会社が代わり、横浜DeNAベイスターズになっても応援を続けてきた。
「人生から切り離せないという意味ではベイスターズはふるさとみたいなものかもしれません。他人に悪口を言われるとカチンときますから」
地元の球団はとても弱かった。1950年の球団創設から昨年までに積み重ねた黒星は、12球団最多の4522。
「野球の楽しみ方は、勝敗だけではないとひねくれた見方をするしかなかった。横浜ファンが自虐的なのは、昔から組織がダメだったと知っていたから。大洋時代からのファンと話すと、ご先祖さまも大変だったんだなと共感してしまうんです」
そんな横浜ファンが驚喜したのが98年。38年ぶりの日本一。村瀬さんは〈何があろうと一生、ベイスターズと生きていける〉と誓った。
しかしその後、佐々木主浩、駒田徳広、波留敏夫、谷繁元信、石井琢朗ら優勝の立役者となった選手たちは次々に横浜を去った。弱小チームに逆戻りし、希望だった内川聖一や村田修一も他球団に移った。功労者ですら簡単に放り出してしまう。
「なんでこうなったのか……」
ライターとしてではなく一ファンとしての疑問が、選手やOB、球団社長ら50人以上に話を聞く原動力になった。行き着いたひとつの結論が組織のあり方。たとえば〈クジラ一頭獲れれば選手の給料はまかなえる〉〈クジラと監督は外から獲ってくるもの〉という大洋漁業時代の大ざっぱな漁師気質が破天荒なチームの魅力だった半面、長期的な球団運営を妨げた。
村瀬さんは取材中、何度も涙が溢れたと語る。琢朗も内川も、職員も……みんな球団に強い思い入れを持っていた。勝ちたいと願うからこそ、抱える忸怩たる思いと決断――。30分の予定なのにもかかわらず2時間も3時間も話してくれる人もいた。
「選手や関係者のやるせない気持ちを聞くのがファンとして辛かった。でも、だからこそ、きちんと本にしなければ、プロとして文章を書いていく資格はないと思いました」
ベイスターズという同じ「ふるさと」を持つ人たちの切ない思いが、読み手の胸にも迫る。
「誰が悪かったのかという犯人捜しの本にはしたくなかった。ぼくも前を向きたかった。親会社は代わったのですから」