最晩年の記憶
梶井さんは話をするのが上手な人でね、きいていると面白くて惚れぼれするようだったわ。人の話をききとるのも上手で。でも、僕はこう思います、とか、僕の気持は、なんていうことは言わない人なの。
だから、梶井さんがわたしに恋愛感情を持っていただろうって、人はよくそう言いますけれども、それも梶井さんはこうだっただろう、とこちらが察するよりほか方法がないの。わたしは、姉弟のようなというのが一番的確のように思うけれど、仮に恋愛だとしても、とても抽象的なものでしたね。
伊豆の湯ヶ島でしょっちゅう会っていた時期の少し後に、大阪へ帰ることになった。そのときに、「僕が死ぬようなことがありましたら、宇野さん手を握ってくれますか」と、改めてきかれたことがある。わたしは、無論手を握ってあげますよって返事をしたんだけれども……。
梶井さんが大阪にいたとき、わたしも関西によく来て、神戸の街をふたりで散歩したことを、よぉく憶えている。それが最晩年だったんですね。
「僕の名前を皆が墓次郎と言うんですよ」――梶井さんはそう言ったあとで、必ず「ヒッヒッヒッヒッ」って、高い声で笑うのよ。
耳に残る「ヒヒヒヒ」
もう結核が三期だったんですからねぇ、体も随分辛かったろうし、墓次郎なんて言われることで気が沈まなかった筈がない。だけれどもあの人は、俺はそんなことを気にしてないぞ、という所を他人に見せたかった。梶井さんの諧謔は、自分の病気を悟られまいとする隠れ蓑だったようにも思います。あのヒヒヒヒは、いまでも耳に残っているわ。
梶井さんはしょっちゅう、湯本館にわたしを訪ねてきてくれました。晩ご飯が終ってから、2、30分の道のりを歩いてくる。とても話が面白い人ですからね、夜中の12時頃までもお喋りしているのよ。そうすると宿の女中さんが、廊下に箒を立てて、早く帰ってくれないかって。梶井さんが帰って行かないことには雨戸も閉められないし、自分たちが寝めないでしょう。
梶井さんはとてもお洒落な人でしたよ。湯川屋の梶井さんの部屋にも遊びに行きましたけれども、フランスの香水が置いてあったりして。ウビガンの香水……。よく丸善に出かけて、買うことができないような物でも、舶来品をいろいろ眺めて帰ってくるのが好きだったようですね。
湯川屋の梶井さんの部屋は、もうそこら中に、書き潰しの原稿用紙がいっぱい散らかっているの。だけれども一日に書き上がるのは、ほんの少ぅし。推敲に推敲を重ねて書いて行く作家なんだな、と思いました。文学に対する、そういう真摯な態度に打たれました。
