衛生局長の座を追われるが…
ここまで順調に見えるが、局長就任の翌年に転落する。明治26年(1893年)11月、旧相馬藩主家をめぐる相馬事件に連座して入獄。無罪判決が出たのは翌年5月で、そのときには衛生局長の職を失っていた。
復帰の場は感染症対策だった。明治28年(1895年)4月、臨時陸軍検疫部事務官長に任じられる。日清戦争の戦場から帰ってくる兵をコレラごと国内に入れないための検疫である。広島・下関・大阪の3カ所に検疫所を突貫で建て、23万2346人の帰還者から369人のコレラ患者を見つけた(同記念館「後藤新平絵物語」)。この事業で評価を取り戻し、後藤は同年9月、再び衛生局長に就く。
「風、薫る」では避病院の廊下に追いやられていた柳生が、りんの看護を受けて回復した途端に役人の顔を取り戻す。あの落差は、いったん失脚して伝染病の現場から戻ってきた後藤の来歴に重なる。
大関和が後藤と出会ったワケ
大関和が後藤を訪ねるのは、その翌年である。
和は明治29年(1896年)夏、新潟の高田から東京へ戻った。桜井女学校附属看護婦養成所の同期・鈴木雅(直美のモチーフ)が営む東京看護婦会で、秋から講習所の講師をつとめる。並行して、心臓を病んだ元農商務大臣・後藤象二郎(土佐藩出身)の付き添い看護もしていた(毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』)。枕元についた後藤と、直訴した後藤が、同じ年に並ぶ。
講習所で和が頭を抱えたのは、看護婦の質だった。伝染病が流行するほど需要は増えるが、養成が追いつかず、素養のない者が看護婦を名乗って評判を落とす。和は一番町教会の植村正久牧師の前で泣きながら訴えた。植村は「お和さん、あなたはナイチンゲールでしょう。それじゃあ、まるでナキチンガエル(泣キチン蛙)じゃないか」と言ってなだめたという(前掲書)。
数字も出ている。東京府が規則案を諮問した際の理由書によれば、明治32年(1899年)7月の調査で東京市内の看護婦会は58カ所、会員は908人。府下の看護婦総数のおよそ8割にあたり、その多くが短期間で仕立てられた速成の看護婦だった(平尾真智子「『看護婦規則』の制定過程と意義に関する研究」)。



