「両三年待つべし」と後藤

和は、看護婦を取り締まる規則そのものを国に作らせようと動いた。

その経緯を、和自身が明治42年(1909年)の『婦人新報』に書き残している。はじめは第七議会(1894年)への請願を目指して各看護婦会の会頭に相談し、奔走した。だが、ある議員の助言で、時の衛生局長に直接願い出ることに切り替える。そこで後藤から返ってきたのが、この答えだった。看病婦の社会も改良しなければならないが、まず医界のほうを先にしなければならないから、「りょう三年(3年ぐらい)待つべし」と(平尾、前掲論文に引用)。

医師の側の整備が先で、看護婦はその後。行政官としての筋は通っている。ただし、医師の身分を法律として定める医師法の成立は明治39年で、東京府が看護婦の規則を出すよりあとになる。一方、和の目の前では、一夜漬けの看護婦が白衣を着て患者の家に上がり込んでいた。待てる長さではなかった。

新潟時代の大関和(写真前列、左はじ)、看護学校の生徒たちと
写真提供=医療法人知命堂病院
新潟時代の大関和(写真前列、左はじ)、看護学校の生徒たちと

大関和が待たなかった4年間

だから和は、待ちながら別のことをした。講習所で生徒を育てる一方、信頼できる派出看護婦会を訪ね歩いて協力を求めた。同調者は増え、病院の看護婦や医師も加わって、明治32年(1899年)10月に大日本看護婦人矯風会が設立される。看護婦の職能団体としては最初のものとされる。同じ年、和は『婦人新報』で「伝染病看護法」の連載を始め、講習所の教材にもなる小冊子『派出看護婦心得』を出した。

現場にも出ている。明治31年(1898年)夏、赤痢が集団発生した埼玉県入間郡へ出張し、およそ100人の患者のうち亡くなったのは5人だけという結果を出した(毎日新聞出版、前掲書)。「風、薫る」第19週で柳生が「(赤痢の)死亡率を1割に抑えられた目覚ましい事例だった」と言い残す、あの数字を連想させる仕事である。

その4年のあいだ、後藤の衛生局も動いている。明治30年(1897年)4月に伝染病予防法が公布され、翌月施行された。市町村に伝染病院または隔離病舎を置くことを義務づけた法律で、後藤が衛生局長として伝染病対策にあたるなかで成立したものだ(小島和貴「衛生官僚たちの内務省衛生行政構想と伝染病予防法の制定」)。

第19週でりんが飛び込んでいく避病院は、この制度の上にある。看護婦の規則は後回しにされ、隔離の枠組みのほうが先に整った。

ボーイスカウトの制服姿の後藤新平、1924年ごろ
ボーイスカウトの制服姿の後藤新平、1924年ごろ(写真=旧・水沢市公式サイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons