感染症対策のエキスパートとして
和が陣頭指揮した隔離所ではどこも、二次感染を起こすことなく、他所より流行の収束が早かった。また、回復して生還する患者も他の避病院や隔離所よりは格段に多く、致死率は惣社町隔離所のときと同様、常に5%程度に収まっていたという。こうなるともう奇跡でなく必然。和の手腕によるものだと誰もが認めるようになる。
和の名声は高まり、以前にも増して看護のオファーが殺到した。有名になってもその性格は変わらず、人から頼られると断ることができない。窮状を目にすれば、我が身を犠牲にしても助けたくなる。休日を返上して働き、ますます家に居られる時間は少なくなった。
「働き過ぎですよ、少し休みなさい」
雅からよく注意されるのだが、やめられない。
また、和には看護婦講習所の講師という大切な仕事もある。雅が気を遣って和の負担を軽くするために、他にも4人の経験豊富な看護婦の専任教員を雇い、また、帝国大学病院の医師2名も嘱託として教鞭を執るようになっていた。しかし、日本初のトレインド・ナースである大関和に憧れて、その教えを受けるために入学してきた生徒は多い。彼女らの期待を裏切るようなことはしたくないと、時間の許す限り教壇にも立ちつづけた。


