群馬で集団赤痢が発生、現地で看護
日清戦争後は、関東各地にも赤痢や腸チフスなど帰還兵が持ち込んだ伝染病が蔓延していた。和が東京に戻ってきた年の夏には群馬県の惣社町で集団赤痢が発生し、東京看護婦会にも出動要請があった。このときも和は率先して出動を志願。看護婦講習所の実習指導も兼ねて、2人の看護婦を連れて現地に向かうことにした。
高田の避病院のときと同じように、まずは徹底した感染対策をおこなう。患者を収容していた隔離所を隅々まで消毒し、施設内の環境を常に清潔に保つよう細心の注意を払いつづける。また、腹痛に苦しむ患者たちには腹を温めて血行を促進する温罨法や、当時の日本ではまだ珍しい輸液浣腸などを使って苦痛を緩和する措置を施した。
致死率を5%以下に抑えた「奇跡」
これらが効果を発揮し、100名を超える患者のうち死者はわずか5名に抑えることができた。つまり、致死率は5%以下ということになる。
当時としては「奇跡」という言葉があてはまるほどの低い数字だった。ちなみに、同年には全国で8万5876名の赤痢患者が確認され、そのうち2万2356名が亡くなっている。有効な抗菌薬のなかった時代、赤痢患者の致死率は25%前後、感染すれば「4人に1人は死ぬ」というのが定説化していた。それだけに、和が惣社町隔離所で起こした奇跡は近隣の自治体や医学界から注目されたという。
翌明治30年(1897)になっても赤痢の流行は収まらず、夏になるとまた各地で集団感染が起こり、前年を上回る約9万人の患者が発生した。和は前年に引きつづき、この年も群馬県九十九村(現在は安中市の一部)に出張して、隔離所に常駐しながら患者の看護や感染対策に努めている。
また、翌年の明治31年(1898)にも、埼玉県加治村(現在は飯能市の一部)の隔離所に出張して指導をおこなった。たんなる看護婦ではなく、感染症対策のエキスパートとして頼られる存在になっていた。

