北里柴三郎らに相談し、起業
そして同年11月、東京・本郷に「慈善看護婦会」の看板を掲げた。北里柴三郎や高木兼寛にも相談して踏み切ったこの会は、民間経営の派出看護婦会としては日本で初めてといわれる。のちに「東京看護婦会」と改称し、講習所も設けた。高田から東京へ戻った和も、この会に加わっている。
「慈善」を掲げた会だが、雅の目は現実を見ていた。看護婦の等級ごとに一日の看護料を定める一方、貧しい病人には無料で看護をあてる。上流の家庭で広まりつつあった派出看護を、庶民の手にも届かせようとしたのだ。看護婦への雑用依頼を禁じ、重病人につく際の休息を確保する規則も設けた。
りんのモチーフ、大関和との絆
クリスチャンだった和が慈善と献身の心を前面に立てたのに対し、信仰を持たなかった雅は、看護を確かな技術に裏づけられた職業として、正当な対価とともに世に根づかせようとした。理念は違っても、女性が自立し、看護婦の地位を上げるという志は同じで、二人は生涯の盟友だった。看護婦会を営むかたわら、雅は日本初の公許女医・荻野吟子らと大日本婦人衛生会を組織し、『婦人衛生雑誌』を通じて衛生知識の普及にも力を注いでいる。
看護婦会を和に譲り、40代で引退
明治34年(1901年)、雅は東京看護婦会の経営を和に引き継ぎ、40代半ばで第一線を退いた。病気がちの息子のそばにいたいという家庭の事情からだったという。晩年は息子とともに京都で暮らし、のちに静岡・沼津へ移っている。看護に入る扉を開いたのは夫の死であり、そこから退く理由になったのも、その夫との間に生まれた子どもだった。
ここでドラマの直美を見ると、雅とは順序が逆であることに気づく。孤児として育った直美には、雅にとっての良光のような「先に失った夫」がいない。まず看護婦として自分の足で立ち、その仕事ぶりに惹かれてやってきたのが小川である。雅にとって結婚は看護の前に、直美にとっては看護の後に訪れる。
二人の相手には、共通点もある。ともに軍人だという点だ。雅の夫・良光は西南戦争を戦った歩兵少佐、小川は近衛歩兵第三聯(連)隊の二等軍曹という設定である。将校の妻として任地を転々とした雅に対し、直美が結ばれた小川は、位の低い若い軍曹だ。見合いや家柄ではなく、働く女性への敬意から始まる関係である点も、親が決めた縁組が当たり前だった時代にあって際立っている。

