直系は途絶え、庶流が継いだ荒木の名

さて、前述の「村重の親戚が家名を継いだ」ことに話を進めよう。

村重の直系が無嗣断絶すると、親戚が荒木を継ぎ「荒木流」という馬術の流派を興し、徳川の幕臣として存続したという。系図では、その8代後までは確認できる。

つまり整理すると、荒木一族の系図は村重の正室の子・村次の頃から血統が2派に分かれ、1派は村次が2人の男児を授かり、長男が絵師となって岩佐又兵衛を名乗った。そこで次男が荒木を継いで徳川の直参となったが、次男の代で断絶したという。これが寛永18〜20(1641〜1643)年に編纂された『寛永諸家系図伝』に載っている家譜である。

だが『寛永諸家系図伝』は、編纂期間が2年間と短かったため、正確さが担保されていないといわれている。十分に検証しないまま世に出してしまった可能性があるのだろう。荒木又兵衛がだしの子か否かの混乱も、元をたどれば『寛永諸家系図伝』の曖昧さにあるといえよう。

もう1派は、寛政11〜文化9(1799〜1812)年編纂の『寛政重修諸家譜』に掲載された血統で、村重の親戚が祖となって荒木を継ぎ、その家が8代後まで確認できる。急ごしらえだった『寛永諸家系図伝』の反省のもと約150年後に「重修」、すなわち再編纂したため、信ぴょう性はより増したと“いわれてはいる”。

一族を見捨てた罪が評価を分けた

いずれにせよ、戦国期に“敗者”となった村重の直系が途絶え、親戚筋が残ったなどは、秀吉の姉・日秀尼にっしゅうにの血統しか後世に残らなかった豊臣に似ている。信長の次男、すなわち直系の信雄のぶかつが細々とでも「名門」として存続した織田家とは、異なっている。

荒木村重はもともと、摂津国の有力国衆だった池田氏の家臣だ。系図をさかのぼると藤原北家ふじわらほっけ秀郷ひでさと流の血を汲むと記されているが、池田氏を事実上乗っ取るなど、下剋上の武家といって良い。そうした「成り上がり」の気質は、秀吉と似ているように見える。

ただし、『信長公記』はこう記す。

「荒木村重ひとりのしでかしたことが原因で、一門・親類数知れず別れの血の涙を流した。死んでいった人々の恨みが恐ろしいと、皆舌も引きつる思いでおののいた」

『信長公記』は信長の伝記ゆえ、信長への賛辞が目立つ。しかし、その点を差し引いても、この一文は村重に対する人々の共通認識だったと思えるのだ。

秀吉と同じく戦国を成り上がった武将だったとはいえ、村重の評価は低い。一族を見捨てた罪は、やはり重かったといわざるを得ないだろう。

「太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重」
「太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

参考図書
・天野忠幸『戦国期三好政権の研究 増補版』(清文堂出版、2015年)
・日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史』天野忠幸「有岡城の戦い」(吉川弘文館、2016年)
・太田牛一著、中川太古訳『現代語版 信長公記』(新人物文庫、2013年)

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