毅然と首を差し出した、若く美しい側室

本記事で注目したいのは、側室の「だし」である。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも登場している。石山本願寺に仕えていた「川那部」という人物の娘とされているが、詳しい出自などはこちらもわからない。

『信長公記』は有岡城攻防戦の天正7(1579)年当時、21歳だったと記す。天文4(1535)年生まれで45歳だった村重とは、24歳も年が離れていたことになる。「きこへ有る美人」(有名な美人だった)とも書き残す。

天正7年12月12日、だしは村重の妹や娘、親族とその子ら総勢30人余と共に、京に護送された。同16日、彼女たちは荷車1台に2人ずつ乗せられ、処刑場の六条河原まで引き廻された。「成敗の担当奉行」は、前田利家と佐々成政だった(『信長公記』)。

そして、2人ずつ斬首された。だしの順番は2番目。身重の村重の娘(17)と同組だった。

だしは車から下りると帯を締め直し、(処刑人に)小袖の襟を少し引いてくれるようにお願いすると、微動だにせず、首を落とされたという。だしの毅然とした態度は、続いて斬首される者たちの手本となり、刑は粛々と執行された。

「怨念の絵師」と呼ばれた息子

だしは処刑前、句をいくつか残し、それらが『信長公記』に所収されている。うち1つは有岡城が織田軍の手に落ちた際、村重を思って詠んだものと伝わる。

しもがれに 残りて我は八重葎やえむぐら 難波の浦の底のみくづに」
(訳)今の私は霜にさらされ枯れ残った八重葎(雑草の一種)のようです。あとは難波の海に沈んで藻屑となるだけです

もう1つは斬首の直前に詠んだ辞世で、この世に残していく子への思いを詠んでいる。

「先立ちし この身か露も惜しからじ 母の思ひぞ障りとはなる」
(訳)先に死んでいくこの身は何ら惜しくはないが、母として子を思うと心に触り(心残り)があります

子が心残り――そう、実はだしの子は生き残ったと伝わる。有岡城陥落時はまだ数え2歳で、乳母と共に本願寺に逃れたという。

この子が長じて、のちの世の絵画に多大な影響を与える「浮世絵の祖」岩佐いわさ又兵衛またべえ勝以かつもちである。なんと村重の子は生き長らえ、絵師に転身したというのだ。

岩佐又兵衛 自画像 重要文化財 紙本着色
岩佐又兵衛 自画像 重要文化財 紙本着色(写真=岩佐又兵衛/MOA美術館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

又兵衛にはおそらく、母の記憶はうっすらとしか残っていなかったはずだが、だしの辞世にある「心残り」を受け継ぐように、母の面影を感じさせる絵を残している。