母の最期が傑作を生んだ
代表作は『山中常盤物語絵巻』。奥州平泉へ下った牛若丸(源義経)を訪ねるため都を発った母の常盤御前が、旅の途中の宿で盗賊に襲われて殺害されてしまい、失意の牛若丸がその仇を討つ――という設定で描いた、全長150cmに及ぶ壮大な絵巻物だ。
凄惨な絵である。常盤は盗賊に背後から衣服を奪われ、腰巻1枚の姿にされている。
立ち去ろうとする盗賊に常盤は、「武士なら、ものの哀れは知っていよう。情けがあるならこのような裸同然の姿のままにせず、命も一緒に取れ」と、毅然と言い放った。
盗賊は常盤の黒髪をつかんで引き倒し、乳房の下を刀で貫いた。エロティシズムと惨たらしさが合わさった残虐な描写に、目を奪われる(静岡県熱海市のMOA美術館収蔵)。
理不尽な死を毅然と受け入れる常盤の姿は、又兵衛の母・だしと、どこか似通っている。この作風をもって、又兵衛は「怨念の絵師」とも呼ばれる。
信長と成敗奉行の前田・佐々らを、母の首を刎ねた盗賊集団に見たて、彼らに復讐する義経に自らを重ねて描いたのではないか――そう思えるのだ。
ただし、『寛永諸家系図伝』によると又兵衛は実名を「村直」といい、村重の嫡男・村次の子、つまり村重の孫とされている。つまり、だしの子ではない。こちらの説を有力視する美術史家もいるが、正直筆者には判断つかない。
妻子や家臣、名前も捨てた
さらに村直(又兵衛)の弟・村常が寛永11(1634)年に江戸に出府し、島原の乱(寛永14〜15/1637〜1638)で戦功をあげ、徳川の直参となったと系図は伝えるが、ここで血統は途切れる。おそらく無嗣断絶(後継ぎがなく家系が絶えること)したのではないだろうか。
そして、荒木は村重の叔父の子で、村重の配下として花隈城(兵庫県神戸市)を治めていた元清が家名を継いでいくことになる。その点については後述する。
尼崎城にいた村重は、家臣・一族が処刑されたのちも生き延び、味方の毛利氏のもとへ「亡命」した。
その後、信長が本能寺の変(天正10/1582年)で没すると剃髪して茶人として生き、茶名を「道薫」と号した。
妻子を捨てたことを恥じて「道糞(路傍の糞)」と名乗ったとも伝わるが、同時代の史料にこの名はない。いつの頃からか流布した俗説と考えられる。天正14(1586)、堺で死去した。

