作之助の友人と結婚するが…

作之助の友人だった作家の石濱恒夫と結婚し、一女をもうけたが、作之助への思いは尽きなかった。ある日、石濱は机の上に、林芙美子宛の手紙の書きかけを見つけた。そこには昭子の字で「これでやっと、とうとう織田は私ひとりのものになりました」とあった。笹田和子の婚約記事を読んでのことだった。石濱はいつまでも織田にこだわる昭子にやりきれない思いがした。

結局、昭子と石濱は離婚。昭子は『婦人文芸』に作之助との思い出を連載し、1969年には新宿伊勢丹にて「織田作之助、坂口安吾、田中英光三人展」を開催。1970年には悲願の『織田作之助全集』(全8巻、講談社)の配本を実現させ、同年に2冊目の著書『わたしの織田作之助』(サンケイ新聞社)を刊行した。

昭子にとって作之助との約束は二つあった。ひとつは作之助を歴史に埋もれさせないこと。もうひとつは、自身も作家活動をすること。筆を執ることを教えてくれた作之助に報いたかったのだろう。

82年の人生は幸せだったか

1991(平成3)年にバーを閉め、1998年にアルツハイマー病を発症。2004年12月13日、娘に看取られながら82歳で死去した。

たった4年、実質1年4カ月の作之助との内縁関係で人生が変わってしまった昭子。心のなかに常に愛するひとがいる人生は、豊かなものだったのかもしれない。昭子が倒れてから、娘の春上(女優の京春上)が昭子の便せんを使っていたところ、最後の一枚に昭子の筆跡で西行の句の現代語訳がしたためてあったという。

「世の中にわがものとてはなかりけり 身さえ土にかえすものなり」

【図表1】織田昭子の略歴
プレジデントオンライン編集部作成

・参考文献
織田昭子『マダム』三笠書房、1956年
織田昭子『わたしの織田作之助 その愛と死』サンケイ新聞社、1970年
亀井勝一郎、野田宇太郎、臼井吉見 編『日本文学アルバム第20』筑摩書房、1956年
「特集 追悼織田昭子さん」『婦人文芸』(81)婦人文芸の会、2005年10月
織田作之助「夜の構図」『定本織田作之助全集 第六巻』文泉堂書店、1976年
石濱恒夫「ある離婚の手記」『新潮』54(6)、新潮社、1957年6月号
「小説“マダム”後日物語 織田作之助をめぐる未亡人論争」『娯楽よみうり』3(23)、読売新聞社、1957年6月7日号
織田昭子「4年間生活をともにし、死に水をとった私の立場は…」『新鮮』祥伝社、1978年10月
織田昭子「「辛いわ」マダムの追憶」『特集人物往来』2(6)人物往来社、1957年6月
青山光二「ややこしくも懐かしき―太宰治、理由あって林芙美子を訪ねる事」『小説新潮』43(1)(535)新潮社、1989年1月
青山光二「「虚」のはなやぎ」『小説新潮』26(12)(342)新潮社、1972年12月
徳川夢声「織田昭子」『問答有用:徳川夢声対談集第9』朝日新聞社、1957年
織田昭子「織田作之助とモデルの姉」『特集人物往来』2(2)人物往来社、1957年2月
関根和行『資料織田作之助』オリジン出版センター、1979年
大谷晃一『生き愛し書いた 織田作之助伝』講談社、1973年
青山光二「小説 織田作之助の青春の賭け」『令女界』28(4)、宝文館、1950年4月
「ざつだんざつだん」『週刊現代』1(33)、講談社、1959年11月22日号
野田宇太郎「夜の構図の中に 織田作之助未亡人輪島昭子さん」『六人の作家未亡人』新潮社、1956年
大谷晃一『表彰の果て』編集工房ノア、1985年
山本容朗「酔客往来 新宿交遊学⑧ 織田作之助、田中英光、獅子文六」『潮』(247)
「亡夫に餞けした根性の三未亡人」『週刊サンケイ』18(4)(928)サンケイ新聞社、1969年1月27日号
「強い奴に囲まれて 京春上」『サンデー毎日』49(5)(2670)、毎日新聞社、1970年2月1日号
西嶋公子『あたたかい地域介護を求めて』家の光協会、1993年

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