作之助の女グセは治らず
あるとき、作之助の浮気相手のキャバレーのダンサーが現れてつかみ合いの大げんかになった。さらにそこに妊娠中絶の同意書にサインを求める笹田和子が現れた。こんなふうに作之助の女性関係は数珠繋ぎに続いたが、あまりの忙しさに別れ方が杜撰になっていったので、トラブルになると昭子が原稿料から手切れ金を渡した。
8月30日から読売新聞にて『土曜夫人』の連載が始まり、張り切る作之助はヒロポンの量を2倍に増やした。舞台を東京にしてほしいという申し入れがあり、11月10日に作之助は上京した。そして、座談会や放送局、新聞社、出版社などに昭子を連れまわし、人に紹介した。
東京に越して1カ月で大喀血
12月4日夜、友人たちと銀座から旅館に帰ってきた作之助はお茶を飲み、ケーキを食べて歌を歌っていたが、突然大喀血をした。学生時代から胸を病んでいたが、無茶な生活が祟ったのだった。再び喀血が始まった瞬間、作之助が痰で窒息してしまうと感じた昭子はとっさに口で吸いこんだ。作之助はそのまま東京病院の病床についた。
病院での作之助は、無理難題を言いつけて昭子を翻弄した。オールウェーブラジオ、アイスクリーム、ケーキ、刺身、だし巻き卵など、昭子は言われるがままに探し出した。終戦後1年目のことで、手に入れるのは容易ではなかった。文壇で交流があった菊池寛や林芙美子がお見舞いに来たが、姉たちは誰も来なかった。
1947(昭和22)年1月10日、作家・織田作之助は東京にて33歳の若さで亡くなった。最期の言葉は「思いが、残る……」だったという。

