前の妻は病死、大阪での同棲生活

秋、一枝が亡くなってすぐに作之助はふたたび上京し、昭子に大阪に来るよう言った。昭子は迷ったが、12月6日、汽車で京都へ向かった。途中で作之助の友人の映画監督・川島雄三が合流した。このときの気持ちを昭子は「逃避行という気分のたかぶりも、駆け落ちめいた色気もなく、――ささいな内緒事――だと思いたくて、二人で並んで坐っているのが他人になんとなくはばかられるという、照れ臭さが、先だった」(『わたしの織田作之助』)と書いている。

京都で雨に濡れた作之助は風邪をひき、そのうち昭子にもうつって撮影所に行けなくなった。地震もあり、なし崩し的に大阪の旅館に泊まり、そのまま北野田の作之助の家に入った。

ここは亡妻一枝と作之助が暮らした家で、まだ納骨もしておらず、一枝の写真も飾られたままだった。作之助は遺影の前で手を合わせ、空襲警報が鳴れば防空壕にも遺骨を持って入った。その様子に昭子はショックを受けた。別の女の来訪もあり、勝手知ったるという感じで部屋のなかを歩き回る。昭子はますます心がいじけた。

3月13日の大阪大空襲で焼け出された長姉のタツ夫婦が同居することになり、作之助と昭子は2階に居候のようになった。タツに昭子のことを聞かれた作之助は「あれとは結婚するつもりはないねん」と弁解した。この言葉が後に大きな問題に発展することを、このときは誰も知らなかった。

8月15日に終戦を迎えると、出版ブームが起きて作之助は忙しくなった。大量の仕事をさばくためにヒロポンに手を出した。1日100本のフィリップモリスとコーヒーとヒロポン、そして女性。これらの刺激があってはじめて筆が進んだ。

織田昭子、1972(昭和47)年3月6日、銀座のクラブ「アリババ」にて
写真=東京スポーツ新聞/共同通信社
織田昭子、1972(昭和47)年3月6日、銀座のクラブ「アリババ」にて

別れ、そして復縁

すれ違いの生活になり、11月に別れ話が出た。作之助は「君も不幸だがぼくも幸福ではない」という。12月にふたりははっきりと別れた。あとで作之助は友人に「別れる、いうたら、アッサリハイいいよって……」と腹立たしげに語ったが、昭子はただ無抵抗なだけだった。

実はそのとき、作之助の姉たちは再婚話を進めていた。翌1946(昭和21)年2月、作之助はソプラノ歌手の笹田和子と結婚式を挙げた。しかし、入り婿した笹田家とは常識も生活リズムも合わず、10日目に作之助は散歩に出かけるふりをして逃げ出した。入籍はしないまま終わった。

4月、昭子が京都に戻ってまもなく、作之助が突然やってきた。別れてから50日が経っていた。結局ふたりはまた姉夫婦の富田林の家に居候になり、作之助はタバコとコーヒーとヒロポンとすさまじい量の仕事をこなす日々に戻った。

昭子の仕事は近所の4軒の薬局でヒロポンを買い集めることと、編集者の応対と、夜中に執筆中の作之助の横にいることだった。薬が切れかかるとぼんやりする作之助に、昭子は「そこはこういう方がええ」と執筆のアドバイスをした。寝てしまわないように昭子もヒロポンを打った。ふたりにとって大事なことは小説だけで、それ以外のことはどうでもよかった。