伊藤忠と丸紅を救った「共同救済」とは

このような大きな不況のときには、当然のことながら個別企業の対策が行われる。実際にこのとき苦境に陥った伊藤忠や丸紅は、生き残りのための企業の再編を行っている。この2つの会社は、ともに近江(滋賀県犬上郡豊郷町)出身の伊藤忠兵衛によって創業された伊藤忠合名をルーツとする兄弟会社である。伊藤忠合名は大正7年に伊藤忠商店(丸紅のルーツ)と伊藤忠商事に分割されている。反動恐慌当時について、丸紅のホームページでは次のように説明されている。

「第一次大戦(1914~1918年)後、商品相場が急落して企業や銀行の倒産が相次ぎ、伊藤忠商店、伊藤忠商事も多額の損失を抱えることになった。このため、伊藤忠商事は貿易部門の神戸店や海外店を分離独立させ、1920年(大正9年)に大同貿易株式会社が発足した。大同貿易はその後、フィリピンや中国、インドシナ、インドネシアなどに支店・出張所を設け、繊維品や雑貨、麻、ゴムなどを扱って順調に業績を伸ばしていった。

伊藤忠商店と、堅実な経営を続けていた伊藤長兵衛商店(注・初代伊藤忠兵衛の兄が受け継いだ家業をルーツにしている)は、1921年(大正10年)3月に合併して株式会社丸紅商店が設立された。社長には伊藤長兵衛(初代伊藤忠兵衛の兄の養子)が、副社長に伊藤忠三が就任した。店は本店と京都支店のみで、絹織物・毛織物を扱う繊維専業の問屋であった。1931年(昭和6年)、大阪支店を開設して貿易に注力するようになり、その後、中国各地やインドにも支店・出張所が開設され、取扱商品も繊維に加えて、建築材料や機械、雑貨、食品などと拡大していった。大阪支店の売上の伸びは目覚ましく、1937年(昭和12年)には本店の売上をはるかに上回り、全売上の62%を占めるまでになった」

戦後反動恐慌から学ぶべきは、こうした個々の企業の対応ではなく、業界全体としての対応である。戦後の不況を研究しておられた経済史家の西川博史氏は、「この輸出綿糸シンヂケートの成立は、恐慌による暴力的な価格破壊を阻止し、いっそうの市価低落の下支えとして機能しつつ、綿糸布商仲間間取引総解合により徹底した『共同救済』および市場回復実現への道をも切り開いたのである」(「『戦後反動恐慌』と綿糸紡績業の対策」北海道大学経済学研究、第21巻第一号、1971年)と書いておられる。

戦後反動恐慌から学ぶべきヒントは、この共同救済という発想である。伊藤忠も丸紅も、この共同救済によって救われたのである。大きな不況時には、個々の企業の生き残りだけではなく、取引ネットワーク(ビジネスシステム)と、それを構成する企業群を生き残らせるという発想が必要だということである。近江商人の「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の発想とも通じるものがある。リーダー企業は、大きなそろばんをはじくことが必要なのである。

北米や欧州の自動車メーカーは、個々の企業を生き残らせるために国の援助を仰いでいるが、苦境に直面している日本の自動車産業、エレクトロニクス産業では、個々の企業だけではなく、企業間協働のネットワーク、ビジネスシステムを生き残らせるという発想が必要だろう。そのために業界のリーダー企業は、それまでの蓄えを使うという「大きなそろばん」をはじくことをしなければならない。個々の企業は、独力で生きているのではない。企業間取引のネットワークの中で生かされているのである。

実際にこのネットワークを残した日本の紡績産業は生き残ることができたが、個別企業の生き残りだけを考えていたイギリスの紡績業は消えてしまったというのが、今井君の結論である。まさに「情けは人のためならず」なのである。