「南から大軍が来る」発想が構造的になかった
これは太田垣氏の脅威となる勢力がなんだったかを考えれば明白だ。山名氏内部の内紛、但馬東部の国人衆、北方からの勢力である。だから城は北と東を向いて配置された。戦場は但馬の内部だった。南の播磨は同じ山名傘下の勢力圏であり「そこから大軍が来る」という発想が、構造的に存在しなかった。
そもそも、太田垣氏が想定していた「戦争」と、織田軍がやってきた「戦争」は、根本的に別物だった。
但馬の国人同士の合戦というのは、せいぜい数百人規模の兵が衝突し、どちらかが優勢になれば交渉が始まり、人質を出して帰服する……そして、また数年後に離反することの繰り返しだ。勝った方も負けた方も、翌年には同じ但馬で生きている。戦争とは、秩序の中の交渉手段だったといえるだろう。
だから城の設計も「死ぬまで戦う」ためではなく、「交渉の時間を稼ぐ」ためで十分だった。連郭式の縄張り、連絡線重視の支城配置は、全部、この「戦争観」に最適化されている。
ローカルルール崩壊、太田垣氏は“詰んでいた”
織田軍は違った。
兵農分離の常備軍が、補給を維持しながら、しらみつぶしに城を落としていく。交渉の余地を与えず、逃げ場を塞いでから来る。国人レベルの合戦では、そもそも存在しえた規模ではない。
太田垣氏が「退散」して降伏したのを臆病とは言えない。彼らは100年間通用してきたルールで戦おうとしたが、相手はそのルールごと持ってこなかった。ゲームが変わっていたことに、気づいた時にはすでに詰んでいたのである。
そんな太田垣氏の思考を示すのが、その後の歴史である。数年間、城代として竹田城にあった小一郎だが、1579年に信長の命令で明智光秀の支援のため丹波に出陣。
結果空き家になった城には、今度は毛利についた太田垣輝延が入城したようである。しかも、この男、毛利についたというのに翌年小一郎が再び侵攻すると瞬く間に降伏……さすがに、これは許されなかったのか、以降太田垣氏は没落している。
小一郎が3日で落とし、太田垣氏が「強い方につく」を失敗して没落し、誰も住まなくなった廃城の跡地に、別の人間が後から石垣を積んだ。
それが「難攻不落の天空の城」の正体である。
そうだよな、マチュピチュがあってもインカ帝国は滅びたし、ラピュタは物語が始まった時点で滅びていた。


