主君を裏切り、強者に降伏…“地方国人の典型”
つまり太田垣氏の正体はこうだ。
「山名四天王」という立派な肩書きはある。しかし山名氏に絶対的な忠誠があるわけではない。つねに『強い方につく』国人勢力なのである。
難攻不落に「見える」城を構え、名族の看板を掲げているといえば、聞こえはいい。でも、いざとなれば主君を裏切り、強者が来れば降伏する。戦国時代の地方国人の典型にすぎなかったのだ。
これを責めることはできない。生き残るためにそうするしかない時代だったのだから。
そういう勢力が守る城に「死ぬまで戦う」籠城戦を期待すること自体、最初から無理な話だった。
石垣は後世のもの、激戦の記録なし、降参で終わり、目的は銀山、そして城主は強い方につく国人。「天空の城・竹田城」の実態は、これである。
でも、当時の城郭の配置図を見ると早々に降参を決めるのは当たり前だとよくわかる。竹田城は「生野銀山を確保するための城」とも言われている。ところが、こちらの竹田城周辺の城郭の配置図(図表1)を見てほしい(資料をもとに筆者が作成した)。生野銀山は竹田城よりも南の岩洲城の、さらに南にある。
つまり小一郎が岩洲城を落とした時点で、生野銀山はもう織田方のものとなっている。竹田城が銀山を守れる位置にそもそもない。
この配置図(図表1)を改めて見てほしい。竹田城を守る支城群は、ことごとく北・東に展開している。南からの侵攻など、最初から想定していない配置だ。小一郎が南から北上してきた瞬間、このネットワークは完全に裏側を向いたまま機能停止したのだ。
太田垣氏の「退散」は、当然の生存戦略
整理しよう。
小一郎の侵攻に対して、抵抗した太田垣氏をはじめとする国人は、銀山を取られた上に、いきなり本城に取りつかれてしまったのだ。支城との連絡線も切れてしまった……詰みである。
この時点で、戦う理由も、戦える状況も、すでに何一つ残っていない。太田垣氏が「退散」して降伏するのは、当然の生存戦略だ。
それに、常備軍を率いる織田勢に対して守る国人たちの軍勢は半農の者が当たり前のはず。岩洲城が落ちた時点で「ちょっと田んぼの様子を見てくる」と逃亡している者が続出してもおかしくはない。竹田城での戦いも「いきなり開城したら降伏しても軽く見られるかもしれない」という形だけの抵抗だったのかもしれない。
つまり『信長公記』が竹田城攻めを「退散」の一言で終わらせたのは、手抜きでも省略でもない。実態がそうだったから、そう書くしかなかったのだ。
では、なぜ竹田城の支城群は北・東にしか展開していないのか。答えは単純だ。太田垣氏にとって、敵は歴史的に北と東にしかいなかったからである。


