信長公記では“作業報告レベルの扱い”

たったの一言である。

「取り懸け、退散」それだけなのだ。攻城戦の描写など一切ない。『信長公記』において竹田城攻めは、「あと岩洲城も落としといた、抵抗していた連中も退散、小一郎を城代にした」という、ほぼ作業報告レベルの扱いである。

では小一郎が総大将だったというのはどこからきたのか。それは『武功夜話』の記述だ。『武功夜話』は、史料的価値に疑問が残る書物だが『信長公記』よりも記述は詳しい。

豊臣秀長画像
豊臣秀長(羽柴秀長) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟。(写真=春岳院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり。

こちらには「岩石を投げ落として抵抗した」「鉄砲三百挺で制圧した」という描写がある。つまり、竹田城も、それなりに抵抗はしたものの、鉄砲三百挺の銃撃には敵わないと、城を明け渡して降参し退散したというわけである。

整理すると、信頼度の高い『信長公記』では「退散」の一言、信頼度に疑問符がつく『武功夜話』でも「遂に叶わず降参」とどちらも、激戦があったとも苦戦したとも記してはいない。いかにも難攻不落の城みたいにみえるのに、なんでこんなに見かけ倒しなんだ?

城主・太田垣氏は「山名四天王」の名族だが…

別に竹田城は見かけ倒しではない。小一郎が攻めた当時も堅固な城ではあったろう。それでも竹田城は、長期間の抵抗はできない宿命を持つ城だったのだ。

和田山町教育委員会『史跡・竹田城跡:但馬・和田山』(1994年)によれば、経緯はこうだ。1577年10月に姫路城に入った秀吉は、1カ月足らずで播磨の国人らを帰属させた。

その後、軍を二手に分け、秀吉本隊は西へ回り込んでから北上して上月城を攻め、小一郎はまっすぐ北上して岩洲城を経て竹田城を攻撃。わずか三日で竹田城が降参した後はさらに北上し養父郡までを平定している。

この進軍スピードをみると、城の堅固さ以前に、小一郎に敵対する国人たちに問題があった事実が浮かび上がってくる。

まず、竹田城の素性を確認しておこう。『史跡・竹田城跡:但馬・和田山』によれば、竹田城は室町時代の嘉吉年間に山名持豊(宗全)によって築城され、太田垣光景が守護代となって以来、代々太田垣氏が城主を務めた。この太田垣氏、「山名四天王」と呼ばれた名族である。応仁の乱では但馬に侵攻した細川氏を撃退するなど、確かな武功も持っている。

ここまで聞くと、なかなかの家柄に思える。しかし実態はどうか。

1512年、太田垣氏はほかの国人と組んで但馬守護・山名致豊に離反し、弟の誠豊を擁立しているのである。つまり、主君に刃を向けることに、さほど躊躇がない。その上、小一郎に攻められると、さっさと降伏して臣従している。